<その7からつづき>

冒頭で、ハイデガーはナチスと深い関係があった、と言った
が、この頃は第一次大戦に続いて、二次大戦が行われた年だった。

つまり、ニーチェの予見したニヒリズムに近い状態、人間の
理性と科学が理想の社会を作れる、という期待が、がらがらと
音を立てて崩れた時代。

技術は進歩しようとも人間の理性は進歩せず、結局は大掛かりな
殺し合いにしか繋がらないのではないか、と人々は落胆して、
人類がまだ自然と調和できていた無垢な時代を懐かしんだころ、
かもしれない。

後期ハイデガーは二次大戦中〜後だから、丁度そのあたり。
端的に言えば、人間は、自らのおごりの象徴である技術を捨て
自然に還るべき、というロマン主義的傾向のあらわれだと思う。

 
・「頽落」と後期ハイデガー

さてこの「存在の真理」という考え方、現存在が「脱-存」すべき
という考え方、先に見た「非本来性」と「本来性」に似ていません
か。

実はこれは、今のこの世は虚飾にまみれたウソの世界であり、
その虚飾を取り払って真の世界に触れることが必要である
という、「頽落」の「存在バージョン」ともいうべきもの…だと
思う。

後期ハイデガーのアイデアはこれに尽きていて、実存主義、
現象学としては非常に弱いものになっている。今見えている存在
とは別に、どこかに「存在の真理」がある…こんなことは、
ノエシス-ノエマとしては現れないし、証明しようがない、
言ってみれば「形而上学的」だ。

誰もが自明のものとして持っている漠然とした「存在とは何か」
をつきつめていくとしたところが前期ハイデガーの実存主義の
白眉だった。これなら誰でも存在について追求できるし、
かなり普遍的な考え方もつきつめていけそうだ。しかし後期では、
どこかにある「存在の真理」を追想によって得るべきだとする…
もはやそれは誰にでも追求できるものではなくなり、昔の思想家や
詩人にしかたどり着けないものとなっている。これでは、到底
哲学としては成り立たない。哲学はそういうものではないのだ。

ハイデガーはプラトニズムを批判するが、実はこの考え方こそが
(おそらく)ハイデガー自身が批判した、プラトン発のロゴス
中心主義(人間が理性(ロゴス)によって真理にたどり着ける
という考え方)と同根のものなのであり、哲学が陥りやすい罠、
なんだと思う(実際はプラトンは、実存主義の先駆けだと思う
けれど)。

どこかに「真理」があり、それと「一致する」ことこそが
哲学の本分である…これは現象学とは、真っ向から反対な考え方
だ。人間の有限な知性で「真理」など認識できない。人間に
持てるのは「確信」だけなのだ。

だから後期ハイデガー、いや、前期-後期を貫いている「本来性」
「非本来性」という考え方、つまり「頽落」のアイデアそのもの
が、あまり評価に値しない、というのが竹田さんのハイデガーの
結論だった、と記憶している。

ただ、人間が「本来性」を本質的に「求める」ような存在である、
という本質をあらわしている、とも取れる。そういう肯定的側面もある。

次から、はじめての哲学史からまとめて…いこうと思ったん
だけど、開いてみたらもうほとんどカバーしていた(-_-;)
追加説明の要はなさそう。

ハイデガーはこれで終わり、次はサルトルです。

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