≪現代哲学(6)−現象学・ハイデガーについて<その7>−≫
2004年8月16日<その6からつづき>
・存在の真理
後期ハイデガーでは、現存在のあり方も少し変化する。
いわく、「存在そのものによって存在の真理の内に「投げ」
入れられている」。
プラトンで、存在がイデアに与(あずか)って(その
おかげで存在できている、というニュアンス)いたのと
同じように、存在が「存在の真理」に与って存在できている
という感じが出てくる。
現象学的には、本来「気分」でつきあたりである(俺的には
「気分」と「知覚の束」とその間の「現存在」という構図は
動かないが)。これ以上さかのぼろうとすると、人間の
「気分(欲望)」は何で存在しているのか?を説明する
ことになり(大脳生理学の知識は「現象学的還元」で
削り落とされている)、トートロジーかもしくは神話的説明
でしか、説明できなくなるのだ。
ところがハイデガーはこれを「存在の真理」によるのである、
と、してしまう(のだと思った)。
存在と時間が「存在の真理」の「性起」によって贈り届けられる
もので、しかし人間は「言葉の家」でしかこれを受け取れない
から、言葉の家に住みながら、この「存在の真理」を守らねば
ならない、という。
・どう生きるべきか?
こうして、後期ハイデガーでは、言葉の家に住む存在として、
その「存在の運命」に従いつつ、「存在の真理」を守りつつ
これに属する、という形で「脱-存」するものとして、
「存在の牧人」として生きねばならないと主張する。
よく意味はつかみづらいが、では具体的にどう生きたらいいか?
ハイデガーによれば、プラトン以後、ニーチェに破壊される
までの全形而上学は(といってもニーチェ自身をも含むらしい
が。ただフッサールは含まないのだろう)、その「存在の真理」
を見失った「存在忘却」の状態にあった。
だから、ソクラテス以前の思索家たちの言葉を聞き、また、
ハイデガーはヘルダーリンという詩人の詩もかなり研究していた
らしいが、このヘルダーリン、リルケ、トラークルといった
詩人の詩作、「思索する者たちと詩作する者たち」の語る言葉の
内に「存在の真理」を聞き取らねばならない、とするのである。
さてオカルトじみているのだが、これには少しわけがある、
らしい。次で詳しく述べます。
その8へ。
・存在の真理
後期ハイデガーでは、現存在のあり方も少し変化する。
いわく、「存在そのものによって存在の真理の内に「投げ」
入れられている」。
プラトンで、存在がイデアに与(あずか)って(その
おかげで存在できている、というニュアンス)いたのと
同じように、存在が「存在の真理」に与って存在できている
という感じが出てくる。
現象学的には、本来「気分」でつきあたりである(俺的には
「気分」と「知覚の束」とその間の「現存在」という構図は
動かないが)。これ以上さかのぼろうとすると、人間の
「気分(欲望)」は何で存在しているのか?を説明する
ことになり(大脳生理学の知識は「現象学的還元」で
削り落とされている)、トートロジーかもしくは神話的説明
でしか、説明できなくなるのだ。
ところがハイデガーはこれを「存在の真理」によるのである、
と、してしまう(のだと思った)。
存在と時間が「存在の真理」の「性起」によって贈り届けられる
もので、しかし人間は「言葉の家」でしかこれを受け取れない
から、言葉の家に住みながら、この「存在の真理」を守らねば
ならない、という。
・どう生きるべきか?
こうして、後期ハイデガーでは、言葉の家に住む存在として、
その「存在の運命」に従いつつ、「存在の真理」を守りつつ
これに属する、という形で「脱-存」するものとして、
「存在の牧人」として生きねばならないと主張する。
よく意味はつかみづらいが、では具体的にどう生きたらいいか?
ハイデガーによれば、プラトン以後、ニーチェに破壊される
までの全形而上学は(といってもニーチェ自身をも含むらしい
が。ただフッサールは含まないのだろう)、その「存在の真理」
を見失った「存在忘却」の状態にあった。
だから、ソクラテス以前の思索家たちの言葉を聞き、また、
ハイデガーはヘルダーリンという詩人の詩もかなり研究していた
らしいが、このヘルダーリン、リルケ、トラークルといった
詩人の詩作、「思索する者たちと詩作する者たち」の語る言葉の
内に「存在の真理」を聞き取らねばならない、とするのである。
さてオカルトじみているのだが、これには少しわけがある、
らしい。次で詳しく述べます。
その8へ。
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