<その6からつづき>

・存在の真理

後期ハイデガーでは、現存在のあり方も少し変化する。
いわく、「存在そのものによって存在の真理の内に「投げ」
入れられている」。

プラトンで、存在がイデアに与(あずか)って(その
おかげで存在できている、というニュアンス)いたのと
同じように、存在が「存在の真理」に与って存在できている
という感じが出てくる。

現象学的には、本来「気分」でつきあたりである(俺的には
「気分」と「知覚の束」とその間の「現存在」という構図は
動かないが)。これ以上さかのぼろうとすると、人間の
「気分(欲望)」は何で存在しているのか?を説明する
ことになり(大脳生理学の知識は「現象学的還元」で
削り落とされている)、トートロジーかもしくは神話的説明
でしか、説明できなくなるのだ。

ところがハイデガーはこれを「存在の真理」によるのである、
と、してしまう(のだと思った)。
存在と時間が「存在の真理」の「性起」によって贈り届けられる
もので、しかし人間は「言葉の家」でしかこれを受け取れない
から、言葉の家に住みながら、この「存在の真理」を守らねば
ならない、という。

 
・どう生きるべきか?

こうして、後期ハイデガーでは、言葉の家に住む存在として、
その「存在の運命」に従いつつ、「存在の真理」を守りつつ
これに属する、という形で「脱-存」するものとして、
「存在の牧人」として生きねばならないと主張する。

よく意味はつかみづらいが、では具体的にどう生きたらいいか?

ハイデガーによれば、プラトン以後、ニーチェに破壊される
までの全形而上学は(といってもニーチェ自身をも含むらしい
が。ただフッサールは含まないのだろう)、その「存在の真理」
を見失った「存在忘却」の状態にあった。

だから、ソクラテス以前の思索家たちの言葉を聞き、また、
ハイデガーはヘルダーリンという詩人の詩もかなり研究していた
らしいが、このヘルダーリン、リルケ、トラークルといった
詩人の詩作、「思索する者たちと詩作する者たち」の語る言葉の
内に「存在の真理」を聞き取らねばならない、とするのである。

さてオカルトじみているのだが、これには少しわけがある、
らしい。次で詳しく述べます。

その8へ。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索