<その4からつづき>

・「先駆」について。

これも難しい。最初に少し、さきの「頽落」と絡めて
ハイデガーの考え方を紹介します。

ハイデガーは、「善」について、現存在が個々で
思い描く「本来性」に向かうことだとしている。
「頽落」を脱し「本来性」に近づけば近づくほど、
善を為せる存在になる、これもなんとなくわかる。

要するに「先駆」というのは、このことを指している
のだと思う。

「死」はいつ訪れるとも知れないし、誰とも交換する
ことなどできない。

孤独にこの「死」に対して態度を取るとき(先駆)、
あらわれる現存在の「本来的」な「気遣い」。
これを「先駆的決意性」と呼ぶようだ。

 
・「時間性」

次は「時間性」。これもまた難しい説明がしてあって、
ベルクソンが「純粋な現在は未来を侵食する過去の捉え
がたい進行」と言っていたけど、これをベースに理解
するのでなければ、俺にはさっぱりなんのことやら…

昭和堂の哲学史によれば、さきの「先駆的決意性」を
可能ならしめるものがこの「時間性」であるという。

というのは、ちょっと難しいのだけど

現存在の存在である気遣いには
<世界内部的存在者のもとでの存在として、己れに先ん
じて世界の内で既に存在している>
という構造が含まれていて、

その気遣いの本来的なもの、本来的気遣い、先駆的
決意性は、
<既に在る己れの責めある存在を引き受けつつ、その
時々の状況における世界内部的存在者のもとで、己れの
もっとも固有な可能性に関わり決意する>
というあり方であるから、

このあり方が可能であるためには、現存在は
<己れに先んじて己れの可能性をめがけて己れ自身へと
到来しつつ、既に在った己れに立ち戻りながら、現前
する存在者を出会わせている>
のでなければならない、という。

前・中・後で俺なりの解釈をすれば、

前の文章では、世界において、現存在の前にすでに
何かがあった、みたいな事を言ってるみたいに取れる
けど、これは「到来的」である「気分(力への意志、
欲望(エロス))」のことだと思う。

現象学的には、この「気分」の「到来性」は
世界解釈のもっとも根本をなすもの。
なぜなら、「現象学的還元」においても排除されず
「世界」が解釈される以前にすら、「本質直観」に
おいて対象とできるものだから、である。

そういう哲学用語を使わなくとも、行動以前に存在
するもの、学問を作った原因となったもの、人間が
生きるのはなぜか、といえば、これにつき動かされる
からだ、と言えるもの、というと分かりやすい。

現存在が世界を解釈する以前(それによって解釈
されるのであるから、当然だが)にどこかからやって
くる「気分」、、という感じだろうか。

中の文章は、これは、「死」へ向き合ったときの、
いつわらざる人間の「本来性」からくる「先駆的
決意性」のことだと思う。

さらに後の文章では、前を前提にして中が可能である
ためには、今までの己のあり方を振り返りつつ
目の前の世界と向き合っているのでなければありえない。
つまり、
今までの経験(過去)を振り返りつつ、可能性(未来)
へとめがけるのでなければ、現存在のあり方も存在しえ
ない。この経験(習慣、知識)→可能性(未来)という構造、
これこそが「実存」としての現存在にとっての
「時間性」、、ということだと思う。

本質直観をしてみれば、現存在にとって、時間とは
数学などで扱うときのように、数直線上の一点の
ように現れたりはしない。確かに、このように
現れるといったほうが適切かもしれない。

まだ少し細かい論点もあるようだけど、昭和堂でも
割愛しているので、後期にいきます。

ハイデガー入門の内容、あんまり覚えてない(-o-;)

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