≪現代哲学(6)−現象学・ハイデガーについて<その3>−≫
2004年8月14日<その2からつづき>
さて、これまでで、現存在の世界内存在としてのあり方が
明らかになった。フッサールのノエシス-ノエマの考え方に
かなり近いと思う。同じ現象学だから当然だけど。
昭和堂の言葉を借りると、<われわれは世界-内-存在と
して、この世界の内に投げだされ(被投性)、何らかの
「気分」のうちで、己れの可能性を「了解」しつつ「企投」
する>。
これは基本的には、つねに己れのあり方を問題にしつつ
それに態度を取るあり方、「到来的な欲望(気分)を
受け取りつつそれに態度を取り(了解)、また世界に
対して態度を取る(企投)」存在である、という「実存」
としてのあり方として考えていいと思う。
ただハイデガーで少し違っているのが「被投性」という
考え方で、われわれは望むと望まざるとにかかわらず
この世界に存在しつづけ「なければならない」という
ニュアンスを含んでいると思う。
無理に生きたいとも思わないが死ぬのもいやだ、そういう
けだるい、無気力な気分の時に実感するのがこの「被投性」
で、いっそのこと「無」になってしまいたいのに、いや
元々そうであればよかったのに、何も感じないアメーバ
とかに生まれていたほうがよかったのに、なぜ私はここで
人間として存在していなければならないのか、なんて思う時は、
人間は自分の「被投性(「世界」に投げ入れられている、
という受動的なニュアンスと思う)」としての自分の存在が
「重荷」になっているのだという。
これは、少し後で出てくる「頽落」「先駆」における
「死への不安」と、繋がる概念。
…と思うんだけど正直自信がない。
昭和堂の解説は難しいので、どうしても自分解釈が入ってしまう。
・つぎ、「気遣い」。
この「気遣い」のニュアンスは非常に難しい。
とりあえず昭和堂の自分解釈でいきます。
それだと不安なので、最初に昭和堂からの引用。
<われわれは世界-内-存在として(略)、己れを取り巻く
さまざまな道具に意を配り、また己れと共に在る他者たちを
顧み、最終的には己れ自身を気遣いながら生きている。
ハイデガーは、特に道具への配慮を「配慮的気遣い」、
他者への配慮を「顧慮的気遣い」と術語化したが、被投的
企投におけるこのような気遣いこそが現存在を現存在
たらしめている当のもの(すなわち現存在の存在)だと、
彼は洞察した。そしてこの気遣いには、<世界内部的
存在者のもとでの存在として、己れに先んじて世界の内で
すでに存在している>という構造が含まれていることを彼は
見て取るのである>
なんとなくしかわからないので自分解釈するしかありません…
現存在の根本は「気分」である(ハイデガーは「情状性」と
呼んだが、分かりやすいのでこちらを使う)。現存在は
この「気分」を受け取りつつ、それと目の前の「世界」とを
考え合わせて自分の行動を選択するような存在だ(「気分」が
ノエシスの根本的なもので、目の前の世界はノエマであり
「知覚の束」、人間が感じるのはこれ以外はない)。
このときの「考え合わせる」ところが「気遣い」だと思う。
もう少し違う言い方をするなら、到来的な「気分」を
「了解」して世界に「態度」を取る時の構造、仕組み。
もうちょっと噛み砕くと、「目の前の世界にどう関わって
いくか」に対する気遣いという感じ。
またもう少し言い換えるなら、欲望と目の前の世界とを
考え合わせて思考し、また欲望によって世界を解釈していく、
こと、それを適切に行おうという気遣い。
<志向性>に<力への意志>が少し加わったイメージ
だと思う。
だから単にノエシスとノエマになってしまうのではなくて、
ノエマの中にも「道具」と「他者」と、あえて追加すれば
見えているが気遣いの対象とならない「背景」といった
ところだろうか、という区別ができてくる。
ハイデガーが「情状性」と呼び、ニーチェが「力への意志」、
竹田さんが「欲望(エロス)」と呼んでいるものが、
世界を解釈する、という例の「欲望相関関係」としての
世界の解釈の仕方というか、そのあらわれというか。
道具は、気分、力への意志、によってそのありようを
いくらでも変えうるし、他者にいたっては、自分と
同じように、他者を「対象化」する存在である。
どうしても特別な「気遣い」を向ける対象になる、と、
ほんとに簡単な表現だけど、そういうことだと思う。
昭和堂では、この「気遣い」が元々「頽落」にいたる
必然的なプロセスをもっている、と書いている。
理由は、気を遣うことによって、周りの人間に合わせて
生きてしまっている、というくらいの書き方。もう
返してしまったので読み返せないが、竹田さんのハイデガー
入門では違った読み方がしてあったような。
その4につづく。
さて、これまでで、現存在の世界内存在としてのあり方が
明らかになった。フッサールのノエシス-ノエマの考え方に
かなり近いと思う。同じ現象学だから当然だけど。
昭和堂の言葉を借りると、<われわれは世界-内-存在と
して、この世界の内に投げだされ(被投性)、何らかの
「気分」のうちで、己れの可能性を「了解」しつつ「企投」
する>。
これは基本的には、つねに己れのあり方を問題にしつつ
それに態度を取るあり方、「到来的な欲望(気分)を
受け取りつつそれに態度を取り(了解)、また世界に
対して態度を取る(企投)」存在である、という「実存」
としてのあり方として考えていいと思う。
ただハイデガーで少し違っているのが「被投性」という
考え方で、われわれは望むと望まざるとにかかわらず
この世界に存在しつづけ「なければならない」という
ニュアンスを含んでいると思う。
無理に生きたいとも思わないが死ぬのもいやだ、そういう
けだるい、無気力な気分の時に実感するのがこの「被投性」
で、いっそのこと「無」になってしまいたいのに、いや
元々そうであればよかったのに、何も感じないアメーバ
とかに生まれていたほうがよかったのに、なぜ私はここで
人間として存在していなければならないのか、なんて思う時は、
人間は自分の「被投性(「世界」に投げ入れられている、
という受動的なニュアンスと思う)」としての自分の存在が
「重荷」になっているのだという。
これは、少し後で出てくる「頽落」「先駆」における
「死への不安」と、繋がる概念。
…と思うんだけど正直自信がない。
昭和堂の解説は難しいので、どうしても自分解釈が入ってしまう。
・つぎ、「気遣い」。
この「気遣い」のニュアンスは非常に難しい。
とりあえず昭和堂の自分解釈でいきます。
それだと不安なので、最初に昭和堂からの引用。
<われわれは世界-内-存在として(略)、己れを取り巻く
さまざまな道具に意を配り、また己れと共に在る他者たちを
顧み、最終的には己れ自身を気遣いながら生きている。
ハイデガーは、特に道具への配慮を「配慮的気遣い」、
他者への配慮を「顧慮的気遣い」と術語化したが、被投的
企投におけるこのような気遣いこそが現存在を現存在
たらしめている当のもの(すなわち現存在の存在)だと、
彼は洞察した。そしてこの気遣いには、<世界内部的
存在者のもとでの存在として、己れに先んじて世界の内で
すでに存在している>という構造が含まれていることを彼は
見て取るのである>
なんとなくしかわからないので自分解釈するしかありません…
現存在の根本は「気分」である(ハイデガーは「情状性」と
呼んだが、分かりやすいのでこちらを使う)。現存在は
この「気分」を受け取りつつ、それと目の前の「世界」とを
考え合わせて自分の行動を選択するような存在だ(「気分」が
ノエシスの根本的なもので、目の前の世界はノエマであり
「知覚の束」、人間が感じるのはこれ以外はない)。
このときの「考え合わせる」ところが「気遣い」だと思う。
もう少し違う言い方をするなら、到来的な「気分」を
「了解」して世界に「態度」を取る時の構造、仕組み。
もうちょっと噛み砕くと、「目の前の世界にどう関わって
いくか」に対する気遣いという感じ。
またもう少し言い換えるなら、欲望と目の前の世界とを
考え合わせて思考し、また欲望によって世界を解釈していく、
こと、それを適切に行おうという気遣い。
<志向性>に<力への意志>が少し加わったイメージ
だと思う。
だから単にノエシスとノエマになってしまうのではなくて、
ノエマの中にも「道具」と「他者」と、あえて追加すれば
見えているが気遣いの対象とならない「背景」といった
ところだろうか、という区別ができてくる。
ハイデガーが「情状性」と呼び、ニーチェが「力への意志」、
竹田さんが「欲望(エロス)」と呼んでいるものが、
世界を解釈する、という例の「欲望相関関係」としての
世界の解釈の仕方というか、そのあらわれというか。
道具は、気分、力への意志、によってそのありようを
いくらでも変えうるし、他者にいたっては、自分と
同じように、他者を「対象化」する存在である。
どうしても特別な「気遣い」を向ける対象になる、と、
ほんとに簡単な表現だけど、そういうことだと思う。
昭和堂では、この「気遣い」が元々「頽落」にいたる
必然的なプロセスをもっている、と書いている。
理由は、気を遣うことによって、周りの人間に合わせて
生きてしまっている、というくらいの書き方。もう
返してしまったので読み返せないが、竹田さんのハイデガー
入門では違った読み方がしてあったような。
その4につづく。
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