<その1からつづき>

つづいてベルクソンが提出する概念が「純粋持続」。これは
上のような感情の持続性をふまえて出された概念のようだが、
意味はつかみづらい。

単純に考えて、純粋な「持続」は科学では扱えない、という
こともあると思うが、自分としてつかんだ意味としてはこうだ。

純粋な「持続」としての「生」のようなものは、つねに
「今」において、その本質全体を刷新されるような可能性を
もっていて、それは分割・定量化によってはかれるものでは
ない。なぜなら、それは、<全体としてひとつながりの「生」>、
<たった今も持続し続け、過去の「生」全体の意味を変更する
可能性を秘めている「今」>のふたつの捉え方を前提に
しなければ扱えないものであり、それは科学的手法の手に余る。

ちょっと拡大解釈しすぎかもしれない。実際、こんなことは
哲学史には書いてない…。。しかし哲学史の内容は少し難しくて
アホである俺にはよく分からないので要約しづらい。要点を
つかみ出すとこんなことだと思った。

この考え方には、「生」における時間と、科学における時間の
違いがあると思う。科学においては時間は過去-現在-未来の
一直線だが、「生」においては過去はただの記憶であり、未来は
まだ不透明で未知なものであり、現在、「今」は、「純粋持続」
の先端である、ということかもしれない。

また人間の「生」、「純粋持続」においては因果性が成り立たない
し、非空間的で非物理的であると言っているが、このあたりの
論証はよくわからない。原著に詳しいのかもしれない。
 

つぎにベルクソンは、「純粋持続」において何が経験されている
かといえば、それは「イマージュ」であるという。

簡単に言うと、「イマージュ」というのは、例えば目の前に
石ころがあるとして、その石の客観的な性質、原子はこれから
出来ていて分子はこうで…、あるいは硬度はこれくらい、色は
このくらい、という客観的な要素、あるいは五感で感じ取れる
外的な要素、「感覚に現れる表象」と、さきも示した、その
感覚を想起させるようなキーワードを言うことでしかあらわせない
ような感覚、内的な要素、「心の表象」のふたつから成っている。

このふたつの合わさった総合的な表象が「イマージュ」であり、
純粋持続、生、というのはイマージュを認識しながら不断に流れる。

しかし、イマージュは現前の事象によってのみ成るものでは
ない。それは、かつて心に刻まれた表象の記憶を想起し、それを
目の前の事象に当てはめることによって生まれるものでも、ある。

ここでベルクソンは「記憶」を、人間の本能的で自動的な
行動を生む「記憶」、過去の再現前化された表象が「心像的記憶」、
そして心像的記憶が生まれるための素地となる(プラトンがイデアで
示そうとしたものだろうか)、認識以前にこれを知っていなければ、
心像的記憶を整理できないであろうと思われる「純粋記憶」の
3つに分ける。

しかしこの3つの記憶も、ともに「今」の知覚によっていくら
でも刷新される可能性を秘めているし、それぞれ孤立している
わけではない。イマージュは記憶であるが、しかし記憶とは
すでに過去のものを想起しているものに過ぎない。確かに人間の
イマージュは、「今」感じているものではあるが、同時に
それは「過去」あったものを万分の一秒後に再現前化している、
とも言える。そしてまた、その記憶の総体、イマージュを
感じ取りつつ、それをもとに「未来」へ態度をとる。
その「今」の連続が未来へ進み、また過去によって進まされる。

このような人間のあり方をベルクソンは、「純粋な現在は、
未来を侵食する過去の捉えがたい進行」
であると表現する。
なかなかうまい言い方だと思う。

こうした過去と現在と未来の相互浸透が、緊張をもたらすという。
緊張とは少し捉えがたい言い方で、ちょっと意味をうまく要約
できない。またこの緊張が高まると、蓄積されたエネルギーが
放出される。

生命は過去の蓄積を、現在において、未来にそれを放出する
水路を決定する営みである、その営みのことを、ベルクソンは
「生の飛躍(躍動)」(エラン・ヴィタール)と呼んだ。

またこの理論は進化論の解釈へと繋がっていくのだが、
重要なのは「純粋持続」の考え方だと思うので、そのあたりは
割愛します。

これは目的論・機械論を覆すというよりは、その視点では
人間の生をうまく捉えることが出来ない
、ということを
示していると思う。

確かに、数式で他人の人生を描かれても、彼がどんな思いで
人生を過ごしたのかつかみづらい。づらいというか、無理だ。
日記帳のほうがまだ分かりやすい。それはおそらく、
「共感としての直観」は数式ではあらわせない次元のもの
だからだろう。見る側にそれを想起させる表現でなくては
ならない。数式では感覚が想起されない。「共感」ができない。

彼はまた、目的論・機械論批判として、例えば目的論は
生命進化に何か絶対目的を設定するし、機械論は、すべての
事象に機械的因果性を当てはめるが、それは、事象すべてを
すでに起こったものとして扱わなければ不可能である、とする。

目的論なら、先立ってその目的があり、その目的から全ての
生命が秩序づけられるし、機械論ではすべての事象がその
因果論体系に秩序づけられるが、それを断定するためには、
あらかじめ過去-現在-未来にわたる要素が与えられて
いなければならない。

確かにそうだ。とはいえ、ラプラスの悪魔ならその前提も
可能だが、人間にそれが出来るわけがない、と言う。

人間の知性の限界、という観点からも、目的論、機械論的
世界観で人間の生をつかむことは出来ない。確かにそれは
そうかもしれない。

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