≪現代哲学(2)−生の哲学・ベルクソンについて<その1>−≫
2004年8月5日生の哲学では割と多くのページを割かれているアンリ・ベルクソン
(1859〜1941)。「はじめての哲学史」ではシルクハットの
紳士のおじさんの写真がでてます。
ちょっとアインシュタインの時代には及ばなかったかも
しれないけど、微妙なところか。ベルクソンの生存時にも
アインシュタインの論文はいくらか出ている。
ベルクソンは当時の科学的知識を十分に得ながらも、当時
支配的だった機械論的・因果論的認識では、生命活動
そのもの、および人間の精神の力動性、ダイナミズムを
捉えることはできないと考えた。
このころは多分、ニュートン力学でいずれは宇宙の全てが
理解されうると思われていたころでしょうか。たぶん、
医学、解剖学もすすんで、人間もしょせんはニュートン力学で
動くロボットにすぎない、という考えが支配的だったのだろう
と思う。
しかし、世の中にあるのは物質だけであって精神はその
あらわれにすぎない…という考えは、見てきたように、
大陸合理論のあたりからも見出せる考え方で、割と説得力も
ある。説得力もあるが、違和感もある。もちろん、イギリス
経験論とかカントも説得力はあるが。彼は、では、この
考え方をどういう視点から覆していくのか?
彼は人間の生をまず「メロディ」に譬(たと)える。
彼は、メロディの本質は、科学的手法によっては解し
得ないと理解する。というのも、メロディは時間的に
ひとつながりでひとつの本質をなすものであり、仮に音節、
またはパターンごとに分割したとしても、その音楽全体が
人間に与える影響をそこから計り知ることはできない。
なぜなら、メロディはそれまでの旋律の流れを記憶しながら、
常に変化し続けることによって、「今」聴こえてきている
音によって、それまで聴いた音の、全体のイメージをも
変更してしまうようなものだからである。均等な感覚で
淡々と変化を続ける科学的な時間の流れのうえでは、この
メロディ全体の印象の変化を捉えることができない。
結局、不断に流れ続ける音楽を、はじめから「今」もしくは
終わりまで聴いている人間の直観そのものが、その音楽の
総体としてもつ意味を一番的確につかむことができる。
そしてそれは、パターンとか音節、空気の振動だとか、
音のもつ性質を分節して分析してみても、音楽そのものが、
そのつどの変化において人間にどのような影響を与えている
のかということは、とても計り知ることはできないであろう。
それは時間的にも不断の流れであるし、人間の感覚は
定量化しようと思ってもできないからである。
人間の生もこれに似ている。確かに人間の仕組みだとか、
人生のそのつどそのつどの客観的なことがらについては
分析可能であるが、今まさにその生を生きている人間の
感覚まで定量化できるものではない。人間の「今」は、
それまでその人が生きてきた過去全体を含み、つねに
その意味を変化させうるという本質を持っているから
である。
このように、人間の生もメロディも、近代的知性、
科学的手法によって、測定はされうるけれども、
その本質ははかることができない。
たしかに、どれだけ物理学とか大脳生理学が発達しても、
そのつどそのつどのある一個人にとって生がどんな意味を
もっているか、を推し量ることはできないと思う。
それを数学的記号であらわされても、見ている側に本質など
伝わりはしないのだ。
ならば何によって人間の生をはかることが可能なのか、
といえば、ベルクソンによれば、「共感としての直観」に
よって可能なのだという。
この「共感としての直観」は、ちょっと説明がわかり
づらいのだがベルクソンが言うことには「対象のもっている
独自の、したがって言い表しえないものと合一しうるような
類の<共感>」だという。
「感覚」をすべて言い表すことはできない。だが「感覚」
そのものは、言い表すことのできない対象の独自性と、
つねに合一している(しうる)ものである、ということ
だろうか。考えてみれば、人間が誰かと「共感」するときも、
言葉によってそれを想起させはするが、感覚そのものを
伝えられるわけではない。
「自分がこう思った時には、この人の今言っているような
ことを言うな」…と思わせることで、感覚を伝えるのだ。
伝えられたほうも、自分に経験がある感覚を想起させる
ことで、共感をなす。
病院とかで「ちくちく痛む」とか「じんじん痛む」とかいう
言い方がされるが、実際、ちくちくとかじんじんにしても
いろいろある。それを細かく区分していこうとしたらどうなるか?
人間の数だけ、いろいろな言い方があらわれて、無数に
表現の数が増えていくだけだろうと思う。っていうような
ことだろうか。
その2につづきます。
(1859〜1941)。「はじめての哲学史」ではシルクハットの
紳士のおじさんの写真がでてます。
ちょっとアインシュタインの時代には及ばなかったかも
しれないけど、微妙なところか。ベルクソンの生存時にも
アインシュタインの論文はいくらか出ている。
ベルクソンは当時の科学的知識を十分に得ながらも、当時
支配的だった機械論的・因果論的認識では、生命活動
そのもの、および人間の精神の力動性、ダイナミズムを
捉えることはできないと考えた。
このころは多分、ニュートン力学でいずれは宇宙の全てが
理解されうると思われていたころでしょうか。たぶん、
医学、解剖学もすすんで、人間もしょせんはニュートン力学で
動くロボットにすぎない、という考えが支配的だったのだろう
と思う。
しかし、世の中にあるのは物質だけであって精神はその
あらわれにすぎない…という考えは、見てきたように、
大陸合理論のあたりからも見出せる考え方で、割と説得力も
ある。説得力もあるが、違和感もある。もちろん、イギリス
経験論とかカントも説得力はあるが。彼は、では、この
考え方をどういう視点から覆していくのか?
彼は人間の生をまず「メロディ」に譬(たと)える。
彼は、メロディの本質は、科学的手法によっては解し
得ないと理解する。というのも、メロディは時間的に
ひとつながりでひとつの本質をなすものであり、仮に音節、
またはパターンごとに分割したとしても、その音楽全体が
人間に与える影響をそこから計り知ることはできない。
なぜなら、メロディはそれまでの旋律の流れを記憶しながら、
常に変化し続けることによって、「今」聴こえてきている
音によって、それまで聴いた音の、全体のイメージをも
変更してしまうようなものだからである。均等な感覚で
淡々と変化を続ける科学的な時間の流れのうえでは、この
メロディ全体の印象の変化を捉えることができない。
結局、不断に流れ続ける音楽を、はじめから「今」もしくは
終わりまで聴いている人間の直観そのものが、その音楽の
総体としてもつ意味を一番的確につかむことができる。
そしてそれは、パターンとか音節、空気の振動だとか、
音のもつ性質を分節して分析してみても、音楽そのものが、
そのつどの変化において人間にどのような影響を与えている
のかということは、とても計り知ることはできないであろう。
それは時間的にも不断の流れであるし、人間の感覚は
定量化しようと思ってもできないからである。
人間の生もこれに似ている。確かに人間の仕組みだとか、
人生のそのつどそのつどの客観的なことがらについては
分析可能であるが、今まさにその生を生きている人間の
感覚まで定量化できるものではない。人間の「今」は、
それまでその人が生きてきた過去全体を含み、つねに
その意味を変化させうるという本質を持っているから
である。
このように、人間の生もメロディも、近代的知性、
科学的手法によって、測定はされうるけれども、
その本質ははかることができない。
たしかに、どれだけ物理学とか大脳生理学が発達しても、
そのつどそのつどのある一個人にとって生がどんな意味を
もっているか、を推し量ることはできないと思う。
それを数学的記号であらわされても、見ている側に本質など
伝わりはしないのだ。
ならば何によって人間の生をはかることが可能なのか、
といえば、ベルクソンによれば、「共感としての直観」に
よって可能なのだという。
この「共感としての直観」は、ちょっと説明がわかり
づらいのだがベルクソンが言うことには「対象のもっている
独自の、したがって言い表しえないものと合一しうるような
類の<共感>」だという。
「感覚」をすべて言い表すことはできない。だが「感覚」
そのものは、言い表すことのできない対象の独自性と、
つねに合一している(しうる)ものである、ということ
だろうか。考えてみれば、人間が誰かと「共感」するときも、
言葉によってそれを想起させはするが、感覚そのものを
伝えられるわけではない。
「自分がこう思った時には、この人の今言っているような
ことを言うな」…と思わせることで、感覚を伝えるのだ。
伝えられたほうも、自分に経験がある感覚を想起させる
ことで、共感をなす。
病院とかで「ちくちく痛む」とか「じんじん痛む」とかいう
言い方がされるが、実際、ちくちくとかじんじんにしても
いろいろある。それを細かく区分していこうとしたらどうなるか?
人間の数だけ、いろいろな言い方があらわれて、無数に
表現の数が増えていくだけだろうと思う。っていうような
ことだろうか。
その2につづきます。
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