≪現代哲学(1)−生の哲学・ディルタイについて−≫
2004年8月5日さて、現代哲学にはいります。現代哲学、哲学を少し
かじっている人(=俺レベル)は多少名前を知っている人
…フッサール、ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン
などがいるけど、哲学知らない人は、現代哲学最大のビッグ
ネームのこの人たちも、ほんとに知らないと思う。
ソクラテスとかプラトン、アリストテレス、ニーチェは
聞いてわかるかもしれないが、この人たちはほとんど
一般に認知されてないだろう、きっと。
ヴィルヘルム・ディルタイ(1833〜1911)もそんな人のひとり。
といっても、この人はそうビッグネームという感じでもないし
ってこんな紹介の仕方をしてはいかんか…
ディルタイ、とこの後のベルクソン、ジンメル、ガダマー
の四人は、「生の哲学」の人たちに分類される。
代表的人物としてはベルクソンなのかな?まだわからない
けど。実存主義にも近いところがあるのか、昭和堂では
「生の哲学と実存主義」というふうにニーチェとか
キルケゴールとまとめて扱われている。
なんか、こういう分類は、分ける人によって微妙みたい
ですね…ディルタイは違うのかも。分からない。
「生の哲学」とは何か?ショーペンハウアーでも少し扱った
けれど、人間の生そのものを問いなおすような哲学。
世界の合理的秩序の中に人間を位置づける自然科学のような
手法ではなくて、世界を認識する主体としての人間を
分析していく哲学、という感じかもしれない。
ともあれ、見ていきましょう。
ディルタイの哲学は、「人間の生を歴史的観点から考察する」
ということだと読み取れた。ヘーゲルのように、あらかじめ
完成へ向かう理性とか精神の存在を想定するのではなくて、
人間が生きる上で得ていく知識、その全てが人間の生における
「歴史」であって、人間が得られるものはそれ以上でも
以下でもなく、人間の「今」における「生」は、まさにそれを
紐解くことによって理解されえるのだ、ということである。
彼はこの探求を、カントにならって「歴史的理性批判」と
名づけた。
人間の生を理解するのに、自然科学における科学的・機械論的
見地だとか、形而上学的な「絶対精神」などは適切ではない。
そういった神の視点ではなくて、人間が人間として得られる
視点をベースに分析していくことによって、人間の「生」を正しく
つかむ。彼の哲学は、さきの歴史的理性批判と、この姿勢が
基本にあるという感じだと思う。
ディルタイによれば、しかしそうした人間の生の意味も、
さまざまな周りの人やものとの連関が無ければ理解しえない。
人間の生は、そこにただぽつんとあるだけで、何か意味を
見出せるものではない。とある「もの」が、それと周りの世界
との関係性においてその「意味」が正しくつかまれるように、
人間の生の意味もまた、父と子、教師と生徒、男と女など、
様々な関係性の網の目の中でこそ、「意味」を正しくつかむ
ことができる。
またそれも、人間の固有な「生」における「歴史」として
理解される。確かにそうだ。人間は、おのれが「認識し、
記憶する以上」の「何か」など知ることはできない。
それはその生に固有の「歴史」である。
しかしながら、その知りうる記憶に関しても、それは
「想起」によってしか、自分には呼び起こし得ない。
そしてまた「想起」による意味理解には限界がある。
それもそうだ。自分の記憶全てを自覚的に把握している
人間はそうはいない。だから、意味理解は決してヘーゲルの
言うような「絶対知」に達したりはしない。
また、歴史(記憶)に拠るというところから、人間の意味理解は
「過去」に依拠するということも導かれると思う。
確かに人間は過去-現在-未来という時間の中を生きている
と考えるが、確実に知ることができるのは過去だけだから
である。未来は、過去の蓄積からの予測にすぎない。
この歴史、人間の生の過程そのものを客観化・外化して出来た
対象を、人間の生の内側から考察する。こうした学問が
社会と人間を考えるときの正しい方法的態度だとディルタイは
考え、この学問を「精神科学」と名づけた、という。
方法論は分かるけれど、ヘーゲルとかニーチェのように、
何か結論が出てたりはしていない学なのかも。哲学史も
このあたりを述べるにとどまる。
とはいえ、人間の生の歴史的理解(歴史的解釈)というのは
割といい発想なんでは。
いずれ著作を何か読んでみたいですね。時間があれば…
かじっている人(=俺レベル)は多少名前を知っている人
…フッサール、ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン
などがいるけど、哲学知らない人は、現代哲学最大のビッグ
ネームのこの人たちも、ほんとに知らないと思う。
ソクラテスとかプラトン、アリストテレス、ニーチェは
聞いてわかるかもしれないが、この人たちはほとんど
一般に認知されてないだろう、きっと。
ヴィルヘルム・ディルタイ(1833〜1911)もそんな人のひとり。
といっても、この人はそうビッグネームという感じでもないし
ってこんな紹介の仕方をしてはいかんか…
ディルタイ、とこの後のベルクソン、ジンメル、ガダマー
の四人は、「生の哲学」の人たちに分類される。
代表的人物としてはベルクソンなのかな?まだわからない
けど。実存主義にも近いところがあるのか、昭和堂では
「生の哲学と実存主義」というふうにニーチェとか
キルケゴールとまとめて扱われている。
なんか、こういう分類は、分ける人によって微妙みたい
ですね…ディルタイは違うのかも。分からない。
「生の哲学」とは何か?ショーペンハウアーでも少し扱った
けれど、人間の生そのものを問いなおすような哲学。
世界の合理的秩序の中に人間を位置づける自然科学のような
手法ではなくて、世界を認識する主体としての人間を
分析していく哲学、という感じかもしれない。
ともあれ、見ていきましょう。
ディルタイの哲学は、「人間の生を歴史的観点から考察する」
ということだと読み取れた。ヘーゲルのように、あらかじめ
完成へ向かう理性とか精神の存在を想定するのではなくて、
人間が生きる上で得ていく知識、その全てが人間の生における
「歴史」であって、人間が得られるものはそれ以上でも
以下でもなく、人間の「今」における「生」は、まさにそれを
紐解くことによって理解されえるのだ、ということである。
彼はこの探求を、カントにならって「歴史的理性批判」と
名づけた。
人間の生を理解するのに、自然科学における科学的・機械論的
見地だとか、形而上学的な「絶対精神」などは適切ではない。
そういった神の視点ではなくて、人間が人間として得られる
視点をベースに分析していくことによって、人間の「生」を正しく
つかむ。彼の哲学は、さきの歴史的理性批判と、この姿勢が
基本にあるという感じだと思う。
ディルタイによれば、しかしそうした人間の生の意味も、
さまざまな周りの人やものとの連関が無ければ理解しえない。
人間の生は、そこにただぽつんとあるだけで、何か意味を
見出せるものではない。とある「もの」が、それと周りの世界
との関係性においてその「意味」が正しくつかまれるように、
人間の生の意味もまた、父と子、教師と生徒、男と女など、
様々な関係性の網の目の中でこそ、「意味」を正しくつかむ
ことができる。
またそれも、人間の固有な「生」における「歴史」として
理解される。確かにそうだ。人間は、おのれが「認識し、
記憶する以上」の「何か」など知ることはできない。
それはその生に固有の「歴史」である。
しかしながら、その知りうる記憶に関しても、それは
「想起」によってしか、自分には呼び起こし得ない。
そしてまた「想起」による意味理解には限界がある。
それもそうだ。自分の記憶全てを自覚的に把握している
人間はそうはいない。だから、意味理解は決してヘーゲルの
言うような「絶対知」に達したりはしない。
また、歴史(記憶)に拠るというところから、人間の意味理解は
「過去」に依拠するということも導かれると思う。
確かに人間は過去-現在-未来という時間の中を生きている
と考えるが、確実に知ることができるのは過去だけだから
である。未来は、過去の蓄積からの予測にすぎない。
この歴史、人間の生の過程そのものを客観化・外化して出来た
対象を、人間の生の内側から考察する。こうした学問が
社会と人間を考えるときの正しい方法的態度だとディルタイは
考え、この学問を「精神科学」と名づけた、という。
方法論は分かるけれど、ヘーゲルとかニーチェのように、
何か結論が出てたりはしていない学なのかも。哲学史も
このあたりを述べるにとどまる。
とはいえ、人間の生の歴史的理解(歴史的解釈)というのは
割といい発想なんでは。
いずれ著作を何か読んでみたいですね。時間があれば…
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