マルクス(1818〜1883)、社会主義の祖ですね。
写真みるとヒゲがすごい。サンタになれそう。

少し哲学史を読んでみて思ったけれど、これはヘーゲルの
「理性的なものは現実的である」を受け継いでるのか
受け継いでないのかちょっとよく分からないです。
受け継いでないかも。やっぱ浅学でした。

「絶対精神」は「自己疎外」だから否定されているし…
マルクスはよく「疎外」という言葉を使うようだ。

本来、自然と一体である人間のあり方から反している
ような社会体制、周りと一体である人間から、一部
切り離され「疎外」されている社会における人間関係の
ありかた。そういったものが批判されている。

つまり例えば、「貨幣」。これは本来、物々交換では
商品の鮮度が問題になるために、長期間保存可能な
「価値」として作り出されたものだと思うが、今では
これ自体が何か絶対的な価値があるかのように思われて
しまっている。自然なやりとりの中から「疎外」されて
「絶対化」されてしまっている…う〜ん、違うかも。
どうだろう…。

本来、それが持っているはずの価値、意味が、それ
自体「疎外」されてしまうことによって、それを介した
人間関係における、人間性を無視してしまうような構造。
これは確かに、資本主義社会では存在するかもしれない。

マルクスは、労働階級の悲惨さを見て、特にこれを
感じただろうと思う。「労働」が本来のあり方から
「疎外」されてしまっていて、労働者を酷く苦しめる
ものになってしまっているのだ。

ならばどうすればよいか。

マルクスの思想のキモは、「人間の意識が人間の存在を
規定するのではなく、逆に人間の社会的存在が人間の
意識を規定するのである」…ということだと思う。
「はじめての哲学史」でもそこに重点を置いて説明している。

市民社会の側から意識をあとづけて説明することによって、
正しく叙述することができる。直接的生活の物質的生産
(衣・食・住に関するそれだろうか)から出発して現実的
生産過程を展開し、この生産によって生み出された社会の
交通形態を基礎として捉えて、国家としてその営みを
統制する。

理論は詳しくは分からないが、「私有財産」を否定して、
国家が財産を保有することによって矛盾を解決する、
といった考え方はけっこう広く知られていると思う。

なるべく「疎外」の少ない社会、そして社会・交通に
よって人間の意識は規定されるのであるから、これを
国家が統制する。詳しいところでは違うかもしれないが、
全体としてはこういう思想だと思う。

基本にあるのはフォイエルバッハに見られたように、
人間は自我であると共に他我である…人間自体が、
「社会関係の総体」である、という考え方だ。

しかし、往々にして人間はこれを認めようとはしない。
確かに社会関係は人間の意識を規定しているのだが、
人間はこれを自分の考えだといって譲らない。
マルクスはこの事態を「イデオロギー(虚偽意識)」と
呼んだとか。

だがこれこそ、人間が社会に規定されているという
証左でもあるかもしれない。人間はイデオロギーに
規定されるような存在なのである。

しかしながら、マルキシズムは教義(ドグマ)的性質を
強く持つために、マルクス主義に基づく革命運動が
絶対的な正義であり、それを批判する者は仲間であっても
「反革命」として弾圧する、という野蛮な機能を果たすことに
なった。それは社会主義国が誕生してからも多大な悲劇を
もたらすことになる。ソ連・中国では大国だけに顕著だった。
結局、求めたユートピアとは反対の地獄を作り出してしまった。

労働者の悲惨をなんとか救おうと思ったマルクスの心情は
察するにあまりある。しかし、人間は社会によってのみ
規定されるようなものでは、なかったということだろうか。

しかしマルクスが直観していた問題にはきっと本質的な
ものも含まれているはずで、機会があれば読んでみようとは
思う。

うーんしかし、なんかまとめていて眠い。

次は深層心理学のフロイトにいきます。

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