≪近代哲学(19)−社会主義・フォイエルバッハについて−≫
2004年8月3日フォイエルバッハ(1804〜1872)。すんごいマイナーな哲学者
だと思う。ニーチェの後だと余計かすむ。でも、ちょっと前の
全共闘の世代の人なら、マルクス、エンゲルス、あとレーニン
とかアルチュセール等と共に皆知っているであろう名前。
タイトルに「社会主義」って入ってるから、そっち方面という
ことは分かりますな。
これは「はじめての哲学史」には年表に出てくるんだけど、
詳しくは扱っていない人。昭和堂ではしっかり扱っている。
では時代背景と共に具体的にみていきましょう。
今では独裁と粛清に繋がることから、問題アリとされている
社会主義。だけど、その発生にはちゃんとした理由もあった。
なんでも、資本主義社会における労働階級の悲惨さは、目に余る
ものだったらしい。中世から市民社会に移行したはいいのだが
相変わらず、一部の特権階級が、貧民をこき使う日常。
また、資本主義の暴走でもあった、欧米の、世界中への侵略・
植民地化行為。これも、資本主義の問題点のひとつだった。
国の内も、外も、人間社会の矛盾、どうしようもなさ、悲惨さを
ありありと映し出していたであろう(とはいえ、政治体制が
どうあれ、利益が得られるのは間違いないのだから、航海技術の
進歩に伴って、武力による外国の植民地化は避けられなかった
とは思うが)。
そんなとき、ヘーゲル哲学を土台として、資本主義の矛盾を
なんとか乗り越えようとして生み出された思想、それが社会主義
だった…、、、、のだと今はとりあえず理解している。
今では資本主義より優れた思想は、ほとんど見出されていない。
もし今、資本主義より優れた思想が、誰か哲学者から提出されたら
どうだろうか?経済問題も解決し、戦争が起こらないような
理想的な社会体制。誰もがそれを熱望するだろう。
少し前の時代では、それが社会主義なのだと信じられていた、のだと
思う(ちなみに共産主義という言葉があるけど、マルクス主義
というとこちらのほうが適切かもしれない。社会主義は
無政府主義(アナーキズム)なども含む広い概念とか…まだ
勉強不足で分からない)。
結局、社会主義は、資本主義以上の悲惨さを人類にもたらして
失敗した。粛清を含め、社会主義体制下で死んだ人の数は、
億単位であるという(うち、中国の文化大革命がかなりの数字を
上げている)。十万とか百万ではなくて億単位である。
(「共産主義黒書」という本によれば、死者は約一億人。
文化大革命はうち6500万人。桁が違う)
理想は素晴らしかったかもしれないが、結果が悲惨過ぎた。
しかしながら、資本主義の次の思想が全く見えない現状、もう一度
社会主義者が問題とした論点を見直してみることも必要かも
しれない。
(ただ、ここでそれを出来るほど、俺は社会主義を知らない。
いずれ勉強しようと思う)
また、社会主義を語る上で外せなそうな哲学者が、前にも出てきた
ヘーゲル。このヘーゲル哲学を批判することで、社会主義は
生まれた。今現在のヘーゲル哲学への批判は、社会主義の失敗に
よるところもきっと、大きいのだろう。
さてフォイエルバッハ。この人は直接社会主義を提唱した、って
わけじゃないみたい。ただ(従来は)ヘーゲルとマルクスの中間に
位置する、と捉えられていたという。
エンゲルスが「フォイエルバッハ論」というのを書いてますね。
昭和堂では、その位置づけではフォイエルバッハの思想史上の
意味は明らかにならないと言っている。
フォイエルバッハの位置づけは「宗教哲学家」で、キリスト教の
それだったらしい。ただキリスト教批判もしている。
またヘーゲルの宗教哲学の研究者、批判者であり、シュトラウス
という人による分類では、マルクス・エンゲルスと共に「ヘーゲル左派」
に分類されているという。
では彼は、具体的に何を言っていたのか。
ちょっとまだ知識不足でうまく要約出来ないが、彼の思想は
・キリスト教批判
・ドイツ観念論の、独我論批判
にまとめられると思う。
キリスト教は周知のように、権力の形骸化・腐敗とか戦争に結び
ついており、知識人からの批判を一身に浴びていそうな気がする。
フォイエルバッハもその一人だったのだろうと思う。
フォイエルバッハは、神が何か人間の外にある絶対的なものとして
想定されてることを批判した。それらは元々人間の自己愛に根ざす
ものであり、人間がそれを外的なものとして勝手に想定して、
絶対化したにすぎない。それは人間の内なるものとして理解されねば
ならない。
また、キリスト教における「来世」などは存在せず、人間における
魂の不死は、人間を生んだ自然に還ることで成されるのである、と
主張した。
キリスト教の教義を覆すような考え方で、宗教は、人間の精神を
支えるのに役立たない、と彼は結論した。
ニーチェの批判した部分とは少し違う気もするが、これはこれで
まぁ納得のいく批判ではある。
つづいドイツ観念論批判。彼はデカルトのコギトも批判する。
「思惟することによって私自身人間的な類である」…ちょっと
意味を取るのが難しいが、自分すら思惟の対象なのであるから、
そこに他我との違いなどない、自我と同じくらい他我の存在も
確かなのである、ということだろうか。よく分からない。
また、ヘーゲルの「絶対精神」も、本来人間の内にあるものが
これも「神」と同じように、自分から切り離されて絶対化した
ものに過ぎないとされる。人間個人が理性に従って到達できる
そのようなものは存在しない。
こうして、本来的なものからその一部が切り離され、それが
それだけで存在しているかのように扱われるあり方を「疎外」
という。「神」も「絶対精神」も疎外から生まれたものだ。
「疎外」は多くの場合、本来的なあり方を「転倒」させてしまう
ので、いい影響をおよぼさない。
それらは本来自己の中で理解されるものである。そしてまた、
自己とは、人間の類のこと、周囲と一体となったものである。
人間を規定しているのは、身体、自然であり、また他の自己意識
なのである。ここから、自己の存在も理解されねばならない。
丁度時代がそうだが、ロマン主義の影響もあるのかもしれない。
シェリングと同じように、人間は自然との合一をはからねば
ならない、というような考え方が根底にある気がする。
フォイエルバッハは、ドイツ観念論の宗教的哲学、またキリスト教の
宗教における「自己疎外」から解放され、類としてのありかた
…他者との関係に規定される人間のあり方?にたつときに、
はじめて文化の担い手、政治的解放の主体になれる、とした。
これは確かに、社会主義の萌芽がところどころに見られる思想
だと思う。
社会主義の特徴は
・人間は自己そのものによってでなく、社会、他者の関係の中で
その存在を規定される
・「自己疎外」の原因である宗教は毒である
のような考え方にあるから、まさにそのプロトタイプだ。
続いて、マルクスにいきます。エンゲルスはなぜか扱ってない。
理由はよくわからない。
だと思う。ニーチェの後だと余計かすむ。でも、ちょっと前の
全共闘の世代の人なら、マルクス、エンゲルス、あとレーニン
とかアルチュセール等と共に皆知っているであろう名前。
タイトルに「社会主義」って入ってるから、そっち方面という
ことは分かりますな。
これは「はじめての哲学史」には年表に出てくるんだけど、
詳しくは扱っていない人。昭和堂ではしっかり扱っている。
では時代背景と共に具体的にみていきましょう。
今では独裁と粛清に繋がることから、問題アリとされている
社会主義。だけど、その発生にはちゃんとした理由もあった。
なんでも、資本主義社会における労働階級の悲惨さは、目に余る
ものだったらしい。中世から市民社会に移行したはいいのだが
相変わらず、一部の特権階級が、貧民をこき使う日常。
また、資本主義の暴走でもあった、欧米の、世界中への侵略・
植民地化行為。これも、資本主義の問題点のひとつだった。
国の内も、外も、人間社会の矛盾、どうしようもなさ、悲惨さを
ありありと映し出していたであろう(とはいえ、政治体制が
どうあれ、利益が得られるのは間違いないのだから、航海技術の
進歩に伴って、武力による外国の植民地化は避けられなかった
とは思うが)。
そんなとき、ヘーゲル哲学を土台として、資本主義の矛盾を
なんとか乗り越えようとして生み出された思想、それが社会主義
だった…、、、、のだと今はとりあえず理解している。
今では資本主義より優れた思想は、ほとんど見出されていない。
もし今、資本主義より優れた思想が、誰か哲学者から提出されたら
どうだろうか?経済問題も解決し、戦争が起こらないような
理想的な社会体制。誰もがそれを熱望するだろう。
少し前の時代では、それが社会主義なのだと信じられていた、のだと
思う(ちなみに共産主義という言葉があるけど、マルクス主義
というとこちらのほうが適切かもしれない。社会主義は
無政府主義(アナーキズム)なども含む広い概念とか…まだ
勉強不足で分からない)。
結局、社会主義は、資本主義以上の悲惨さを人類にもたらして
失敗した。粛清を含め、社会主義体制下で死んだ人の数は、
億単位であるという(うち、中国の文化大革命がかなりの数字を
上げている)。十万とか百万ではなくて億単位である。
(「共産主義黒書」という本によれば、死者は約一億人。
文化大革命はうち6500万人。桁が違う)
理想は素晴らしかったかもしれないが、結果が悲惨過ぎた。
しかしながら、資本主義の次の思想が全く見えない現状、もう一度
社会主義者が問題とした論点を見直してみることも必要かも
しれない。
(ただ、ここでそれを出来るほど、俺は社会主義を知らない。
いずれ勉強しようと思う)
また、社会主義を語る上で外せなそうな哲学者が、前にも出てきた
ヘーゲル。このヘーゲル哲学を批判することで、社会主義は
生まれた。今現在のヘーゲル哲学への批判は、社会主義の失敗に
よるところもきっと、大きいのだろう。
さてフォイエルバッハ。この人は直接社会主義を提唱した、って
わけじゃないみたい。ただ(従来は)ヘーゲルとマルクスの中間に
位置する、と捉えられていたという。
エンゲルスが「フォイエルバッハ論」というのを書いてますね。
昭和堂では、その位置づけではフォイエルバッハの思想史上の
意味は明らかにならないと言っている。
フォイエルバッハの位置づけは「宗教哲学家」で、キリスト教の
それだったらしい。ただキリスト教批判もしている。
またヘーゲルの宗教哲学の研究者、批判者であり、シュトラウス
という人による分類では、マルクス・エンゲルスと共に「ヘーゲル左派」
に分類されているという。
では彼は、具体的に何を言っていたのか。
ちょっとまだ知識不足でうまく要約出来ないが、彼の思想は
・キリスト教批判
・ドイツ観念論の、独我論批判
にまとめられると思う。
キリスト教は周知のように、権力の形骸化・腐敗とか戦争に結び
ついており、知識人からの批判を一身に浴びていそうな気がする。
フォイエルバッハもその一人だったのだろうと思う。
フォイエルバッハは、神が何か人間の外にある絶対的なものとして
想定されてることを批判した。それらは元々人間の自己愛に根ざす
ものであり、人間がそれを外的なものとして勝手に想定して、
絶対化したにすぎない。それは人間の内なるものとして理解されねば
ならない。
また、キリスト教における「来世」などは存在せず、人間における
魂の不死は、人間を生んだ自然に還ることで成されるのである、と
主張した。
キリスト教の教義を覆すような考え方で、宗教は、人間の精神を
支えるのに役立たない、と彼は結論した。
ニーチェの批判した部分とは少し違う気もするが、これはこれで
まぁ納得のいく批判ではある。
つづいドイツ観念論批判。彼はデカルトのコギトも批判する。
「思惟することによって私自身人間的な類である」…ちょっと
意味を取るのが難しいが、自分すら思惟の対象なのであるから、
そこに他我との違いなどない、自我と同じくらい他我の存在も
確かなのである、ということだろうか。よく分からない。
また、ヘーゲルの「絶対精神」も、本来人間の内にあるものが
これも「神」と同じように、自分から切り離されて絶対化した
ものに過ぎないとされる。人間個人が理性に従って到達できる
そのようなものは存在しない。
こうして、本来的なものからその一部が切り離され、それが
それだけで存在しているかのように扱われるあり方を「疎外」
という。「神」も「絶対精神」も疎外から生まれたものだ。
「疎外」は多くの場合、本来的なあり方を「転倒」させてしまう
ので、いい影響をおよぼさない。
それらは本来自己の中で理解されるものである。そしてまた、
自己とは、人間の類のこと、周囲と一体となったものである。
人間を規定しているのは、身体、自然であり、また他の自己意識
なのである。ここから、自己の存在も理解されねばならない。
丁度時代がそうだが、ロマン主義の影響もあるのかもしれない。
シェリングと同じように、人間は自然との合一をはからねば
ならない、というような考え方が根底にある気がする。
フォイエルバッハは、ドイツ観念論の宗教的哲学、またキリスト教の
宗教における「自己疎外」から解放され、類としてのありかた
…他者との関係に規定される人間のあり方?にたつときに、
はじめて文化の担い手、政治的解放の主体になれる、とした。
これは確かに、社会主義の萌芽がところどころに見られる思想
だと思う。
社会主義の特徴は
・人間は自己そのものによってでなく、社会、他者の関係の中で
その存在を規定される
・「自己疎外」の原因である宗教は毒である
のような考え方にあるから、まさにそのプロトタイプだ。
続いて、マルクスにいきます。エンゲルスはなぜか扱ってない。
理由はよくわからない。
コメント