≪近代哲学(18)−ニーチェについて<その6>−≫
2004年8月3日<その5からつづき>
ニーチェは、この宇宙を次のように捉える。「宇宙ではあらゆる
物質がひきつけあい、ぶつかりあっている。それらがエネルギー
均衡状態に達して静止するものなら、これまで永遠にも近い時が
流れただろうから、もうすでにそうなっているはずである。
しかし現にそうなっていないのだから、ある時点での物質と
エネルギーの配置が再び現れ、そこから宇宙はそれまでとまったく
同じ経過を繰り返すことになるだろう」
今の相対性理論に即した宇宙観ではないかもしれない。だが、
ビッグバン→ビッグクランチの後にまた同じビッグバンが訪れる
とすれば、また時間が永遠に続くために、無限に近い回数、何度
でも起こるとすれば、いつか同じ宇宙がまた再現される可能性は
ほとんど確実に近い。そして何度でも繰り返されるだろう。
さて、こう考えることは確かに不可能ではないが、しかしまた、
確証を得ることなど不可能だ。物理学的にもきっといくつもの
異論がある。しかしこれによってニーチェは何を言おうとして
いるのか?
人間は過去を悔やみ、また時にルサンチマンにとらわれてしまう
存在である。そのルサンチマンの思いをもう少し具体的にすれば、
世界や他者への呪い。「かつてそうだった」「いまこうでしか
ありえない」ということに対する無力感、それに対する、行き場の
ない負の感情である。
受け入れがたいのに変える力は無い、それを心理的に
復讐しようとする衝動が生まれる。これがルサンチマンの本質である。
それは「もしあのときこうしていれば」という、過去に対する
悔やみとしても現れるが、その償いを未来に求める場合もある。
今の苦しみの意味…これは未来における救いの前兆であるのだと、
「何のために」と聞かれれば、来世における救いのためであると。
この、過去、今における苦しみの償いを未来に求める姿勢、
これが多くの「真理」とか「絶対者」への希求として現れる
ことも多い。中世においては来世に、現代においても、未来において、
現在の苦痛の償いを求めてやまない人間の姿がある。
しかし、ニーチェはそれを「永遠回帰」によって否定する。
未来に、過去や今の苦しみの救いなどない。それはもう、既に
今まで通り過ぎた中にあったものであり、またこれからも、
過去や今の苦しみと共に永遠に繰り返されるものだ。
未来において今までの苦しみが清算されて「帳消し」になる
ことなどない。また同じ苦しみが、まったく同じ形で戻ってくる。
ならば、未来に救いを求める意味などない。今この「生」を、
肯定するしかないのだ。もし今この生を精一杯生きて、
肯定することができなければ、それはまた永遠に回帰してくる!
なんという恐ろしいことだろう。次の瞬間にも自分が下す
判断が、これから永遠に時の中で刻まれる「永遠回帰」の
一環であるのだ。
もしそうであるとして、過去にそうでしかありえなかったとして、
しかし今の自分はこれからの自分を紡ぎあげていく可能性を
「実感」している。もし今の瞬間にも、その可能性を
現実性にすることができなければ…、それは未来永劫、
現実にすることができないということだ。
嫌なことは未来にお任せしておけばいい、という自分に都合のいい
考え方、これを「永遠回帰」は一蹴する。そう思ったことは、
これから永遠に回帰してくるのだと。
永遠回帰は、過去にも未来にも、罪を認めない。そのような
意味は、過去にも未来にもない。「今」をどうにかしなければ、
永遠回帰の中で自分の生を有意味にすることができない。
これは「はじめての哲学史」の解釈ともちょっと違う。
(とはいえ、原典読んだらまた違う意味が取れるかもしれない)
しかし、入門書と、哲学史ふたつ読んで理解する限りでは、
俺は永遠回帰をこう理解する。
これから「無限に繰り返される」、唯一であり、変更不可能な
自分の人生、今自分は、もう二度と書き換えることのできない、
アカシックレコードに、自分の人生を刻み込んでいるのだ、という
実感をもたらすもの。
(もちろん過去に同じことが起きてて、これから何が起こるか
すでに決定している、とも言えるが、その内容が知りようもない
のだから同じことだ。それにこれが「一回目」かもしれない)
キリスト教のように来世など信じていなくても、現代でも、人間は
死んでしまえば苦しみから解放される、と素朴に信じている。
だが死んでしまえばおしまい、ではないのだ。たとえ苦しみに
耐えかねて自殺しても、また同じ瞬間が「永遠に回帰」してくる。
どこにも逃げ場はない。「今」この「生」を肯定するしか、
もう自分に道などないのだ。
しかしそれでも、あまりに人生が苦しい。こんなにも苦しいことを
受け入れる力は自分にはない、と思う人もいると思う。
そこでニーチェは、ひとつの美しい物語を語っている。
「人生は一つながりの輪である。もし一度でも心から生きていて
よかったと思うことがあったなら、君は人生の全体を肯定したことに
なる。そのとき君は「あらゆる苦悩とともに万物よ戻ってこい、
この生を私は欲する」と言うことができる─」
君は永遠回帰を欲するか、、とニーチェは問いつつ、
しかし、ニヒリズムの支配する世界において、この思想によって、
我々の生をはげまそうとするのである。
アパテイア、とかアタラクシア、または快楽主義など色々と
あったが、この「永遠回帰」はけっこう究極だと思う。
アタラクシアと同じく、少し感銘を受けた。
実は、主観の精緻な分析より、こうした哲学者の「回り道」的
思想のほうに味があるのかもしれないね。キルケゴールも
名言の宝庫らしい。
、、さて、この後は近代哲学における功績ではあるけど、他の
分野とも少しかぶる、2つの分野、4人の哲学者を紹介して、
近代哲学を終わりにします。
ニーチェは、この宇宙を次のように捉える。「宇宙ではあらゆる
物質がひきつけあい、ぶつかりあっている。それらがエネルギー
均衡状態に達して静止するものなら、これまで永遠にも近い時が
流れただろうから、もうすでにそうなっているはずである。
しかし現にそうなっていないのだから、ある時点での物質と
エネルギーの配置が再び現れ、そこから宇宙はそれまでとまったく
同じ経過を繰り返すことになるだろう」
今の相対性理論に即した宇宙観ではないかもしれない。だが、
ビッグバン→ビッグクランチの後にまた同じビッグバンが訪れる
とすれば、また時間が永遠に続くために、無限に近い回数、何度
でも起こるとすれば、いつか同じ宇宙がまた再現される可能性は
ほとんど確実に近い。そして何度でも繰り返されるだろう。
さて、こう考えることは確かに不可能ではないが、しかしまた、
確証を得ることなど不可能だ。物理学的にもきっといくつもの
異論がある。しかしこれによってニーチェは何を言おうとして
いるのか?
人間は過去を悔やみ、また時にルサンチマンにとらわれてしまう
存在である。そのルサンチマンの思いをもう少し具体的にすれば、
世界や他者への呪い。「かつてそうだった」「いまこうでしか
ありえない」ということに対する無力感、それに対する、行き場の
ない負の感情である。
受け入れがたいのに変える力は無い、それを心理的に
復讐しようとする衝動が生まれる。これがルサンチマンの本質である。
それは「もしあのときこうしていれば」という、過去に対する
悔やみとしても現れるが、その償いを未来に求める場合もある。
今の苦しみの意味…これは未来における救いの前兆であるのだと、
「何のために」と聞かれれば、来世における救いのためであると。
この、過去、今における苦しみの償いを未来に求める姿勢、
これが多くの「真理」とか「絶対者」への希求として現れる
ことも多い。中世においては来世に、現代においても、未来において、
現在の苦痛の償いを求めてやまない人間の姿がある。
しかし、ニーチェはそれを「永遠回帰」によって否定する。
未来に、過去や今の苦しみの救いなどない。それはもう、既に
今まで通り過ぎた中にあったものであり、またこれからも、
過去や今の苦しみと共に永遠に繰り返されるものだ。
未来において今までの苦しみが清算されて「帳消し」になる
ことなどない。また同じ苦しみが、まったく同じ形で戻ってくる。
ならば、未来に救いを求める意味などない。今この「生」を、
肯定するしかないのだ。もし今この生を精一杯生きて、
肯定することができなければ、それはまた永遠に回帰してくる!
なんという恐ろしいことだろう。次の瞬間にも自分が下す
判断が、これから永遠に時の中で刻まれる「永遠回帰」の
一環であるのだ。
もしそうであるとして、過去にそうでしかありえなかったとして、
しかし今の自分はこれからの自分を紡ぎあげていく可能性を
「実感」している。もし今の瞬間にも、その可能性を
現実性にすることができなければ…、それは未来永劫、
現実にすることができないということだ。
嫌なことは未来にお任せしておけばいい、という自分に都合のいい
考え方、これを「永遠回帰」は一蹴する。そう思ったことは、
これから永遠に回帰してくるのだと。
永遠回帰は、過去にも未来にも、罪を認めない。そのような
意味は、過去にも未来にもない。「今」をどうにかしなければ、
永遠回帰の中で自分の生を有意味にすることができない。
これは「はじめての哲学史」の解釈ともちょっと違う。
(とはいえ、原典読んだらまた違う意味が取れるかもしれない)
しかし、入門書と、哲学史ふたつ読んで理解する限りでは、
俺は永遠回帰をこう理解する。
これから「無限に繰り返される」、唯一であり、変更不可能な
自分の人生、今自分は、もう二度と書き換えることのできない、
アカシックレコードに、自分の人生を刻み込んでいるのだ、という
実感をもたらすもの。
(もちろん過去に同じことが起きてて、これから何が起こるか
すでに決定している、とも言えるが、その内容が知りようもない
のだから同じことだ。それにこれが「一回目」かもしれない)
キリスト教のように来世など信じていなくても、現代でも、人間は
死んでしまえば苦しみから解放される、と素朴に信じている。
だが死んでしまえばおしまい、ではないのだ。たとえ苦しみに
耐えかねて自殺しても、また同じ瞬間が「永遠に回帰」してくる。
どこにも逃げ場はない。「今」この「生」を肯定するしか、
もう自分に道などないのだ。
しかしそれでも、あまりに人生が苦しい。こんなにも苦しいことを
受け入れる力は自分にはない、と思う人もいると思う。
そこでニーチェは、ひとつの美しい物語を語っている。
「人生は一つながりの輪である。もし一度でも心から生きていて
よかったと思うことがあったなら、君は人生の全体を肯定したことに
なる。そのとき君は「あらゆる苦悩とともに万物よ戻ってこい、
この生を私は欲する」と言うことができる─」
君は永遠回帰を欲するか、、とニーチェは問いつつ、
しかし、ニヒリズムの支配する世界において、この思想によって、
我々の生をはげまそうとするのである。
アパテイア、とかアタラクシア、または快楽主義など色々と
あったが、この「永遠回帰」はけっこう究極だと思う。
アタラクシアと同じく、少し感銘を受けた。
実は、主観の精緻な分析より、こうした哲学者の「回り道」的
思想のほうに味があるのかもしれないね。キルケゴールも
名言の宝庫らしい。
、、さて、この後は近代哲学における功績ではあるけど、他の
分野とも少しかぶる、2つの分野、4人の哲学者を紹介して、
近代哲学を終わりにします。
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