<その3からつづき>

確かに、素直に振り返ってみれば、自分のもつ、そういった
「力への意志」の存在は分からなくもない。
でももう少し、現代流というか、脳生理学の一般レベルの
知識がある自分に理解しやすく解釈するならば、

人間は生まれたときから、生まれ持った欲望と、社会の一般通念、
周りの人間の考えに影響されつつ、目の前の世界、事物にかんする
知識をたくわえていく。その知識は単なる知識ではなくて、
自分にとって、過去どのような影響をおよぼしたか、また自分が
どのように関与して、それがどのような結果を生んだか、無意識的に
記憶している。これは脳にとって、「生きていくための重要な知識」
である。ハンマーは釘を打てるが、重くて危ない、木や紙は
よく燃えるので、火気に近づけてはいけない、なぜなら火は熱くて
燃えたら死んでしまうから、等々…これらの経験を脳は目の前の
世界に適用し、また、世界から色々なことを吸収しようとする。

これらは無意識的であり、人間が本来持っている能力に即している。
この経験によって脳は自らの欲望の現れ方をいろいろと工夫するし、
目の前の事物の扱い方に関しては、この経験に即して自動的に
判断できるようになる。「認識に要する労力を節約する」のだ。

イスを見れば、直観的に座るものだとわかる。
うちわを見れば、直観的に扇いで涼しくなれるものだとわかる。
コップを見れば、直観的に水を注いで飲むものだとわかる。

これは、何も考えなくても自分がその行動を取れると思うと分かる
と思う。「これはイスであるから、座れるのである」といちいち
判断を下さなくても、無意識的に座れるものと判断できる。

しかし、あるときには、イスは高いものを取るときの踏み台にもなる。
コップならば、風で飛びやすい紙などの上において止めておく、
重しにだってできる。

経験をそのまま当てはめるのではなくて、欲望に対する「有用」と
いう観点から、目の前の事物を秩序付けるはたらきもある。
そしてそのことによって、また新たに経験を積み、自らの
欲望の発現の形式を「刷新」していくのだ。

またもうひとつ付け加えれば、光とか音というのは、もし人間が
本来何もそれを受け取る機関をもたなければ、ほとんど意味など
もたないものだ。生物が進化の過程で、それを受け取り、生きる
ための情報を受け取る機関として発達させたからこそ、それらの
情報を秩序付けられる知性も育った。そうすると、人間のもつ
五感そのものが、「力への意志」による世界解釈のはじまり、
とすることもできる。「五感」は決して客観的世界を受け取ろう
と発達したものではなくて、「力への意志」が、世界を解釈しよう
として生まれたものなのである…。

ちょっと自分流にしすぎかもしれないけど、これが「力への意志」
のひとつの捉え方だと思う。キルケゴールで創始された実存主義に、
ひとつ重要な観点が加わったと考えるといいと思う。

 
実際読んでないのに勝手に解釈してはいかんか…
次は超人なので、いったん切って5に。

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