≪近代哲学(18)−ニーチェについて<その3>−≫
2004年8月3日<その2からつづき>
キリスト教における素朴な「真理」への追究も、
その流れを汲んだ近代哲学・科学の「真理」への追究も、
それが挫折を見たときには、避けようの無い「ニヒリズム」が
訪れる。
なぜならば、それは本来「力への意志」には絶対必要とは思えない
「真理」が「ルサンチマン」によって切実に希求されるように
なってしまったからである。また、その遠因を作ってきたのは
古来からの哲学者達だ。
その解決策としてニーチェが提出した思想が、「力への意志」を
原理とした「超人」「永遠回帰」の思想である。
ただこの思想は、「真理」として信仰されることを恐れてあまり
明確に記述していない、ということも問題点だけど、社会制度の
原理としては、ちょっと耐えられないところがあるという。
実存主義としての功績が大きいのだろう。
「人間は、自分自身がどういう存在なのかを、絶えず問い
つづけるような存在」、このような人間のあり方を「実存」
という(ほかの生物には恐らくありえない存在仕方である)。
また、これには「可能性と現実性の間で、つねに引き裂かれ
つづける」という人間のあり方も含まれている。
哲学のながい歴史の中でつきつめられてきた、誰もがこう
考える他ない、という原理であり、哲学の功績ともいえる
考え方だ。「はじめての哲学史」では、これが、それまでの
哲学の功績の蓄積があってこそのものである、そしてまた、
社会の本質を見抜いたヘーゲルと共に、ニーチェが、この
実存主義において、最高の思想的達成を成している、と
言っている。
個人と社会の、発展の原理を見抜いたヘーゲル。
人間の「実存」というあり方をつきつめたニーチェ。
この2人が、近代哲学の成功者、勝利者である。
もちろん、デカルト、ヒューム、カント、ルソー、キルケゴール
その他の哲学者がいてこその思想的達成だと思う。
えらい余談だった。ではつづきを。
ニーチェがこの実存主義において、具体的にどのような
功績を残したか?これが実は、プラトンの直観していた
問題とほとんど重なるのである。プラトンというともう
2300年近く前であるから、それもちょっと凄い。ともあれ、
キーワードを順に見ていきましょう。
・力への意志
あれですな、ゼノサ○ガのあれです。善悪の彼岸もそうだけど。
実際、ニーチェ読んでからストーリー見てみると、思わず
ニヤリとする場面もあるんでしょうか。どうでしょう。
さてこの力への意志、なんやら哲学的には、見た目のイメージ
とは違って何か深遠な意味があるのか、といえば、けっこう
見たまんまの意味でいいようです。人間に宿る、力への意志。
生とか、権力への、力への意志。欲望のようなもの。
ショーペンハウアーも言っていた、「生きんとする意志」に結構
近い。
とはいえ、この言葉の意味はそれでいいのだけど、この言葉を
原理においた世界説明、にニーチェの思想のキモがある。
どんな生命体も、自己保存、種族保存とか個体の生命保存以上に、
それ以上、もっと先を求め、力を増していこうとする意志が
ある、とニーチェは思った。
そして、それが「世界を解釈する力」であると考えた。
ニーチェの言葉で有名なものに「事実なるものはない。ただ
解釈のみがある」というものがある。
この解釈の源泉が、「力への意志」なのだ。
もちろん自己保存のための力でもある。この「自己保存、
および生長」への欲求である「力への意志」が、さまざまな
生存の条件のもとに置かれることによって、さまざまな
世界の解釈と価値とを創りだしていくのだと。
この考え方は、パッと聞くだけでは、変なこと言ってるように
聞こえる。人間が世界を解釈によって創り出す???
何言ってんの、目の前にモノがあって、そのモノが反射する
光とか、空気の振動とかを感じてるんであって、受動的じゃん、
と。
しかしニーチェの言いたいところはそこではなくて、
人間は、目の前の世界を、生にとっての有用性(善い)
という観点で秩序付ける、ということを言おうとしている
のだ。
これは、ソクラテス(プラトン)も言っていた、「人間にとって
本来語るに値するのは、そのものにとって何が最善であるかという
ことだ」という考えと合致するところがある。
これは、それまでの「認識」に対する考え方を、一変させてしまう
思想だった。それまでの認識は、客観的世界があり、その客観世界を
いわば「模写している」のが認識であるとされていた。
ニーチェの考え方はちがう。世界を認識するということは、
この世界が自分にとってどのような「善い」にかんする意味を
持っているか、にかかっているというのである。
確かに、ヒュームの言うような「知覚の束」では、その世界の
中に何か意味を見出すことはない。目に入ってきている色や
聞こえる音、触感などに、必ず人間は「〜にとって役立つか、
役立たないか」とか「食べられるか、食べられないか」とか、
生にとっての意味づけを行っている。そして、その意味づけは
「力への意志」によっていろいろと変化するものだ。
パンはある時は食べものだが、ある時は消しゴムがわりに
なったりもする…目の前にある「もの」は、人間の意志によって
色々とありようを変える。世界は、人間の「力への意志」
抜きに有意味な何かを持つわけではなく、「力への意志」に
よって解釈されることで、はじめて人間が生きる意味を見出せる、
いきいきとした世界になる。
これはけっこう自分解釈入ってるので自信ないけど、こんなような
意味だと思う。
その4につづきます。
キリスト教における素朴な「真理」への追究も、
その流れを汲んだ近代哲学・科学の「真理」への追究も、
それが挫折を見たときには、避けようの無い「ニヒリズム」が
訪れる。
なぜならば、それは本来「力への意志」には絶対必要とは思えない
「真理」が「ルサンチマン」によって切実に希求されるように
なってしまったからである。また、その遠因を作ってきたのは
古来からの哲学者達だ。
その解決策としてニーチェが提出した思想が、「力への意志」を
原理とした「超人」「永遠回帰」の思想である。
ただこの思想は、「真理」として信仰されることを恐れてあまり
明確に記述していない、ということも問題点だけど、社会制度の
原理としては、ちょっと耐えられないところがあるという。
実存主義としての功績が大きいのだろう。
「人間は、自分自身がどういう存在なのかを、絶えず問い
つづけるような存在」、このような人間のあり方を「実存」
という(ほかの生物には恐らくありえない存在仕方である)。
また、これには「可能性と現実性の間で、つねに引き裂かれ
つづける」という人間のあり方も含まれている。
哲学のながい歴史の中でつきつめられてきた、誰もがこう
考える他ない、という原理であり、哲学の功績ともいえる
考え方だ。「はじめての哲学史」では、これが、それまでの
哲学の功績の蓄積があってこそのものである、そしてまた、
社会の本質を見抜いたヘーゲルと共に、ニーチェが、この
実存主義において、最高の思想的達成を成している、と
言っている。
個人と社会の、発展の原理を見抜いたヘーゲル。
人間の「実存」というあり方をつきつめたニーチェ。
この2人が、近代哲学の成功者、勝利者である。
もちろん、デカルト、ヒューム、カント、ルソー、キルケゴール
その他の哲学者がいてこその思想的達成だと思う。
えらい余談だった。ではつづきを。
ニーチェがこの実存主義において、具体的にどのような
功績を残したか?これが実は、プラトンの直観していた
問題とほとんど重なるのである。プラトンというともう
2300年近く前であるから、それもちょっと凄い。ともあれ、
キーワードを順に見ていきましょう。
・力への意志
あれですな、ゼノサ○ガのあれです。善悪の彼岸もそうだけど。
実際、ニーチェ読んでからストーリー見てみると、思わず
ニヤリとする場面もあるんでしょうか。どうでしょう。
さてこの力への意志、なんやら哲学的には、見た目のイメージ
とは違って何か深遠な意味があるのか、といえば、けっこう
見たまんまの意味でいいようです。人間に宿る、力への意志。
生とか、権力への、力への意志。欲望のようなもの。
ショーペンハウアーも言っていた、「生きんとする意志」に結構
近い。
とはいえ、この言葉の意味はそれでいいのだけど、この言葉を
原理においた世界説明、にニーチェの思想のキモがある。
どんな生命体も、自己保存、種族保存とか個体の生命保存以上に、
それ以上、もっと先を求め、力を増していこうとする意志が
ある、とニーチェは思った。
そして、それが「世界を解釈する力」であると考えた。
ニーチェの言葉で有名なものに「事実なるものはない。ただ
解釈のみがある」というものがある。
この解釈の源泉が、「力への意志」なのだ。
もちろん自己保存のための力でもある。この「自己保存、
および生長」への欲求である「力への意志」が、さまざまな
生存の条件のもとに置かれることによって、さまざまな
世界の解釈と価値とを創りだしていくのだと。
この考え方は、パッと聞くだけでは、変なこと言ってるように
聞こえる。人間が世界を解釈によって創り出す???
何言ってんの、目の前にモノがあって、そのモノが反射する
光とか、空気の振動とかを感じてるんであって、受動的じゃん、
と。
しかしニーチェの言いたいところはそこではなくて、
人間は、目の前の世界を、生にとっての有用性(善い)
という観点で秩序付ける、ということを言おうとしている
のだ。
これは、ソクラテス(プラトン)も言っていた、「人間にとって
本来語るに値するのは、そのものにとって何が最善であるかという
ことだ」という考えと合致するところがある。
これは、それまでの「認識」に対する考え方を、一変させてしまう
思想だった。それまでの認識は、客観的世界があり、その客観世界を
いわば「模写している」のが認識であるとされていた。
ニーチェの考え方はちがう。世界を認識するということは、
この世界が自分にとってどのような「善い」にかんする意味を
持っているか、にかかっているというのである。
確かに、ヒュームの言うような「知覚の束」では、その世界の
中に何か意味を見出すことはない。目に入ってきている色や
聞こえる音、触感などに、必ず人間は「〜にとって役立つか、
役立たないか」とか「食べられるか、食べられないか」とか、
生にとっての意味づけを行っている。そして、その意味づけは
「力への意志」によっていろいろと変化するものだ。
パンはある時は食べものだが、ある時は消しゴムがわりに
なったりもする…目の前にある「もの」は、人間の意志によって
色々とありようを変える。世界は、人間の「力への意志」
抜きに有意味な何かを持つわけではなく、「力への意志」に
よって解釈されることで、はじめて人間が生きる意味を見出せる、
いきいきとした世界になる。
これはけっこう自分解釈入ってるので自信ないけど、こんなような
意味だと思う。
その4につづきます。
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