≪近代哲学(18)−ニーチェについて<その1>−≫
2004年8月3日おそらく日本では一番有名な西洋の哲学者。カント?知らない。
ヘーゲル?誰それ。フッサール?はぁ?という人でもこの人は
知っているであろう、フリードリッヒ・ニーチェ(1844〜1900)で
あります。
といっても、「え、誰だっけ。文学の人?」とか言われそうな
感じもしそうだ。まぁ俺の感覚もアテにならんけど。
ニーチェというと、これも難解な哲学として知られている。
哲学者って、取り方がいろいろあるみたいで、ニーチェなんかは
特によくわからない言い方をするので、解釈がいろいろあるそうだ。
哲学者に対して抱いていた俺のイメージとしては、ニーチェの
存在も影響していた。彼の思想はなんとなく(本当になんとなく)
は知っていたけど、その言い方とか主張があまりに茫洋としている
ため、きっと哲学者の考え方は、その哲学者それぞれの「真理」が
あるのであって、それに触れるのは一般人にとっては、何やら
複雑なことを考える知性に触れられる一種のエンターテイメント
だが、あくまで「ニーチェ真理」とか「プラトン真理」とかの
凡人には理解しえない「哲学者それぞれの真理」があるのであって、
それぞれの思想は独立しているものと思っていた。
キーワードが茫洋としかつ訳わからなすぎて、考えすぎてあさっての
方向にいっちゃってるのだと思ったからだ。考えがあさっての方向に
いっちゃった、頭のいい人の数だけ、哲学者がいるのだと思った。
しかしそれは違って、哲学は時代を追うごとにちゃんと進化している。
パルメニデスしかり、アリストテレスしかり、デカルトしかり、
ヒュームしかり、カントしかり、ヘーゲルしかり。
これらの哲学者はどれも、それが「発見」されてしまえば、
それ以前の思想には戻れないような、「思考の原理」を見つけ
出したのだと思う(もちろん他にもいるが)。
そして、(はじめての哲学史によれば)実存主義の流れに掉さす
ニーチェにしても、時代背景はあれど、それまでの哲学者の功績が
あってこその思想であったのだ(もちろん、彼オリジナルの思想も
ある)。
だが書き方がやっぱり難解すぎるので、解釈もいろいろとあるのは
確か。
ここではとりあえず、「はじめての哲学史」のニーチェ観に
依拠しようと思う。
ニーチェというと、有名な言葉がいくつもある。
それぞれを挙げて、それを説明する形でニーチェの思想を
追おうと思う。
・「神は死んだ」
・ニヒリズム
・ルサンチマン
・力への意志
・超人
・永遠(永劫)回帰
ほかにも「ディオニュソス的・アポロン的」とか、いろいろと
キーワードはあるけど、とりあえずここではおいておく。
まず
・「神は死んだ」とニヒリズム、ルサンチマンから。
この3つはどうしても同時に扱ってしまう概念。
神が死んだことによって訪れるニヒリズム、その源泉がルサンチマンで
あるからである。
どういうことだろうか。
ニーチェは言う。
「ニヒリズムとは、何を意味するのか?─最高の諸価値がその価値を
剥奪されるということ。目標が欠けている。『何のために?』への
答えが欠けている」
実はこれって、現代社会に生きる我々の心情を、ニーチェがこの頃
すでに予見していたといえるのだ。素直に振り返ってみれば、
確かに、「何のために生きるのか?」─という問いに答えを出して
くれるものなど、今の社会には存在していない。
「絶対的に正しいもの」など無いと誰もが思っているし、常識と
なっている。なんとなしな無気力感をおぼえつつ、無目的で無機質な
世の中を生きている感覚があるのではないだろうか。
もちろん、夢に燃えている人もたくさんいるだろうけども。
ニーチェは主著「ツァラトゥストラ」の中で、もはや彼方に向かって
「憧れの矢」を放つことが無い「最後の人間たち(末人)」の
姿を描いている。それはいつも健康に気をつかい、よき眠りだけを
人生の目的とするような、無難で小さい人間の姿である…
これこそ、まさにニーチェが予見した「ニヒリズム」の訪れた
世界である、と思う。
しかし「最高の諸価値」がその価値を剥奪されることでニヒリズムに
いたるというが、具体的にそんなことってあったわけ?とは思う。
最高の価値がその価値を剥奪されることは、ニーチェのころから
大きくふたつあった。ひとつは、キリスト教(これはヨーロッパ
限定の「最高価値」ではある。ただし、欧米諸国による植民地争奪
合戦によって、世界中に、殺戮と支配と共にキリスト教が広まったが)。
神は死んだ。これはキリスト教の神が実際に死んだとかいう話では
なくて、人々にとって、神の価値、存在意義が薄くなってきている、
という意味だ。もちろん、今もってキリスト教は健在どころか
世界最大の宗教だけど、その存在意義は、中世に比べてずいぶんと
薄れていると思う。
ニーチェがいた頃は周知のとおり、自然科学とか工業の技術、
神に道徳を保証されない市民社会の実現など、人間が自分の力で
自然のすべてを解明し、変え、また正しい社会をつくっていける
という確信が人々にあった。神はもう、そこには居場所がないのだ。
少なくとも神のみによって社会制度を保証することはなくなった
し、神を素朴に信じる人も減った。地動説も信じなければ、むしろ
この宇宙は物理学的説明によってこそ説明されうると、その頃
すでにニュートン力学が出ていたし…宗教によって何か保証されうる
ものが、ほとんど科学にとって変わられてしまったのだ。
確かにそれはそうだ。神が死ぬ理由はそれでわからないでもない。
だがこれではまだ「神が死んだ」ことがニヒリズムという形で
現れる理由がよくわからない。
ヨーロッパにおける最高価値であったキリスト教。キリスト教では、
権力とか富より、魂の美しさのみが価値あるものとされ、利己的な
欲望を抑えて他人のために尽くす「利他的」な生き方が正しいと
されている。
これ自体は、問題がないと誰もが思うだろうか?
しかしニーチェにとってみると、こんな考え方は大問題なのだ。
その2から具体的に述べます。
ヘーゲル?誰それ。フッサール?はぁ?という人でもこの人は
知っているであろう、フリードリッヒ・ニーチェ(1844〜1900)で
あります。
といっても、「え、誰だっけ。文学の人?」とか言われそうな
感じもしそうだ。まぁ俺の感覚もアテにならんけど。
ニーチェというと、これも難解な哲学として知られている。
哲学者って、取り方がいろいろあるみたいで、ニーチェなんかは
特によくわからない言い方をするので、解釈がいろいろあるそうだ。
哲学者に対して抱いていた俺のイメージとしては、ニーチェの
存在も影響していた。彼の思想はなんとなく(本当になんとなく)
は知っていたけど、その言い方とか主張があまりに茫洋としている
ため、きっと哲学者の考え方は、その哲学者それぞれの「真理」が
あるのであって、それに触れるのは一般人にとっては、何やら
複雑なことを考える知性に触れられる一種のエンターテイメント
だが、あくまで「ニーチェ真理」とか「プラトン真理」とかの
凡人には理解しえない「哲学者それぞれの真理」があるのであって、
それぞれの思想は独立しているものと思っていた。
キーワードが茫洋としかつ訳わからなすぎて、考えすぎてあさっての
方向にいっちゃってるのだと思ったからだ。考えがあさっての方向に
いっちゃった、頭のいい人の数だけ、哲学者がいるのだと思った。
しかしそれは違って、哲学は時代を追うごとにちゃんと進化している。
パルメニデスしかり、アリストテレスしかり、デカルトしかり、
ヒュームしかり、カントしかり、ヘーゲルしかり。
これらの哲学者はどれも、それが「発見」されてしまえば、
それ以前の思想には戻れないような、「思考の原理」を見つけ
出したのだと思う(もちろん他にもいるが)。
そして、(はじめての哲学史によれば)実存主義の流れに掉さす
ニーチェにしても、時代背景はあれど、それまでの哲学者の功績が
あってこその思想であったのだ(もちろん、彼オリジナルの思想も
ある)。
だが書き方がやっぱり難解すぎるので、解釈もいろいろとあるのは
確か。
ここではとりあえず、「はじめての哲学史」のニーチェ観に
依拠しようと思う。
ニーチェというと、有名な言葉がいくつもある。
それぞれを挙げて、それを説明する形でニーチェの思想を
追おうと思う。
・「神は死んだ」
・ニヒリズム
・ルサンチマン
・力への意志
・超人
・永遠(永劫)回帰
ほかにも「ディオニュソス的・アポロン的」とか、いろいろと
キーワードはあるけど、とりあえずここではおいておく。
まず
・「神は死んだ」とニヒリズム、ルサンチマンから。
この3つはどうしても同時に扱ってしまう概念。
神が死んだことによって訪れるニヒリズム、その源泉がルサンチマンで
あるからである。
どういうことだろうか。
ニーチェは言う。
「ニヒリズムとは、何を意味するのか?─最高の諸価値がその価値を
剥奪されるということ。目標が欠けている。『何のために?』への
答えが欠けている」
実はこれって、現代社会に生きる我々の心情を、ニーチェがこの頃
すでに予見していたといえるのだ。素直に振り返ってみれば、
確かに、「何のために生きるのか?」─という問いに答えを出して
くれるものなど、今の社会には存在していない。
「絶対的に正しいもの」など無いと誰もが思っているし、常識と
なっている。なんとなしな無気力感をおぼえつつ、無目的で無機質な
世の中を生きている感覚があるのではないだろうか。
もちろん、夢に燃えている人もたくさんいるだろうけども。
ニーチェは主著「ツァラトゥストラ」の中で、もはや彼方に向かって
「憧れの矢」を放つことが無い「最後の人間たち(末人)」の
姿を描いている。それはいつも健康に気をつかい、よき眠りだけを
人生の目的とするような、無難で小さい人間の姿である…
これこそ、まさにニーチェが予見した「ニヒリズム」の訪れた
世界である、と思う。
しかし「最高の諸価値」がその価値を剥奪されることでニヒリズムに
いたるというが、具体的にそんなことってあったわけ?とは思う。
最高の価値がその価値を剥奪されることは、ニーチェのころから
大きくふたつあった。ひとつは、キリスト教(これはヨーロッパ
限定の「最高価値」ではある。ただし、欧米諸国による植民地争奪
合戦によって、世界中に、殺戮と支配と共にキリスト教が広まったが)。
神は死んだ。これはキリスト教の神が実際に死んだとかいう話では
なくて、人々にとって、神の価値、存在意義が薄くなってきている、
という意味だ。もちろん、今もってキリスト教は健在どころか
世界最大の宗教だけど、その存在意義は、中世に比べてずいぶんと
薄れていると思う。
ニーチェがいた頃は周知のとおり、自然科学とか工業の技術、
神に道徳を保証されない市民社会の実現など、人間が自分の力で
自然のすべてを解明し、変え、また正しい社会をつくっていける
という確信が人々にあった。神はもう、そこには居場所がないのだ。
少なくとも神のみによって社会制度を保証することはなくなった
し、神を素朴に信じる人も減った。地動説も信じなければ、むしろ
この宇宙は物理学的説明によってこそ説明されうると、その頃
すでにニュートン力学が出ていたし…宗教によって何か保証されうる
ものが、ほとんど科学にとって変わられてしまったのだ。
確かにそれはそうだ。神が死ぬ理由はそれでわからないでもない。
だがこれではまだ「神が死んだ」ことがニヒリズムという形で
現れる理由がよくわからない。
ヨーロッパにおける最高価値であったキリスト教。キリスト教では、
権力とか富より、魂の美しさのみが価値あるものとされ、利己的な
欲望を抑えて他人のために尽くす「利他的」な生き方が正しいと
されている。
これ自体は、問題がないと誰もが思うだろうか?
しかしニーチェにとってみると、こんな考え方は大問題なのだ。
その2から具体的に述べます。
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