ショーペンハウアー(1788〜1860)。あんまり有名な哲学者では
ないと思う。かのニーチェが若いころ、ワーグナーの芸術と、
この人の哲学に、最高の価値を見出していた。

のちにワーグナーには失望するし、ショーペンハウアーを超える
哲学をうち立てるわけだが、ニーチェにとってこの人の影響力は
やはり多大だったらしく、哲学にもニーチェの思想をなんとなく
想起させるものがある。

それに、生の哲学としてはけっこう先駆的位置づけを持ってるの
かな。

生の哲学って何かって、ちょっとまだ意味はよくわからない
けど、自分の主観の仕組みを振り返ることで、生きること
そのものを問い直そうとする…といっても漠然としてるな。
まぁ、そんなような哲学のことだと思っています。

科学的検証を必要としない、自分の意識を探る形で得られる、
人生についての考え方、ということだろうか。

時代としては、ヘーゲルも影響受けたフランスの市民革命後の
政治体制が生まれて、産業革命と同時に工業化が進んだころ。

人間が理性によってどこまでも発展していける…という感覚が
人類を希望に燃えさせていたころでしょうかね。
ただ、社会の下層にいた労働者の悲惨さはやっぱり酷かったらしく…

まぁともあれ、ヘーゲル以後にはじめて扱う哲学者が、どんな
思想を持ったのかみていきましょう。

 
まず、ショーペンハウアーはドイツ観念論の主知主義傾向(認識論で、
真理・認識の根拠を理性に置く合理的立場)に反発したという。

反発して、ではどうするのかというと、「根本意志」とか「盲目的な
生命衝動」とかいう、理性では捉えられない人間の本性部分に、人間の
生の本質がある、と彼は考える。

これってけっこう、的を射ている部分も、個人的にはあるとおもう。
というのは、欲望というのは、理性でコントロールできる部分もないとは
いえないが、基本的に「到来的」で、理性の判断に「ついて来る」もの
ではない。認識に対して欲望が自動的に、どこからからやってきて
理性はそれに対して判断を下すことができる、というものだ。

人間が無意識に目の前の世界に「意味づけ」しているときも、
そのことそれ自体は、かなり到来的だと思う。
意識せずとも、勝手にやってくる、やっているのである。

このあたりは、さすがニーチェが心服していた哲学者だけはある。

 
彼は、たとえば身体を例にしてそれを説明してみせる。

それぞれの意志行為はすぐさま身体行為として現れる。
身体行為は意志の客体化である。

身体行為は意志と同じもので、どちらかが先行するものではない。

意志があるから身体行為があるのではなく、身体行為があるから
意志があるのでもない。

しかし、すべて認識されうるものは現象であるから、身体も
物体として認識はされる。けれども、人は身体から、単に
現象以上のものを受け取る。それは、自らの「意志」である。

 
現代の知識からいうと、脳から神経へパルスが流れるから
動くのであって、意志があるから身体が動くわけだけどね。
けど、「動け」と思ったから動くわけでもない身体、この
「動く」ということの不思議さはよくわかる。

頭でいくら「動け〜!」と念じても動かないからね。
動かすには、まぁ動かせばいいんだけど、それが動く原理も
説明は可能なんだろうけど、感覚としては言葉に表しづらい。

 
つづけて彼は、この「根本意志」こそが、世界の原理であると
する。また、「根本意志」において、「充足理由律」を認めない。
この根本意志は、充足理由律と、それを駆使する知性のはたらき
では、決して捉えられないという。
(充足理由律は、それが存在するのには充分な理由がなければ
ならないという論理法則)

わかる気がする。意志の根源の問題、たとえば「意志はなぜ
ここにあるか?」「意識はなぜここにあるのか?」のような
質問に対しては、トートロジー(AなのはAだからである、
という同語反復)でしか答えられないと思う。

そこには充分な理由があるのではなくて、ただ、あるからあるのだ。

そしてまた、この「根本意志」は、盲目的な生命衝動であり、
「理性的ではない盲目的な迫力」であると彼はいう。

根本意志は究極的な目的をもたないが、しかし、常に己を
展開していかざるを得ないような「無意識的衝動」である。

ショーペンハウアーによれば、これが「世界の原理」なのだ。

 
これが「世界の原理」…?独我論なだけではないの。という
反論も考えられる。プラトンのイデア論が、実は「この世界は
究極的には、善のイデアによって解釈される」のような考え方を
していたときも、そう取れなくもない話だった。

しかしこれは、個人的に、大脳生理学とか物理学と、なんら
矛盾して存在するものではない、と思う。

これは人間の「主観のあり方」を、自らの意識を内省することに
よって、うまく取り出した例であるのだ。

むしろ、大脳生理学と哲学はリンクするのではないかと思っている。
というかもう、今では常識となっている、昔の哲学者の分析に
よる人間の精神への理解が、その助けになっている部分も
大きいのではないだろうか?(もし今でもキリスト教の支配が
強ければ、脳のアルゴリズム説明に「隣人愛」とか「信仰」などが
加わっていたことだろう)

脳の仕組み、アルゴリズムを理解するときに、哲学の精緻な
主観分析の積み重ねは役立つと思う(よく知らないけど)。

話がそれた。

 
ショーペンハウアーによれば、「理性を欠いた盲目的な迫力」
である根本意志は、その究極的目的を持たないのであるから、
なんらかの目的をもったとしても、それを達成することで満足する
ことはない。

だから根本意志は、その現前に、つねに抑圧や障害を抱えている。
それは終わりのないことである。なぜなら、意欲のあるところに
かならず障害があり、根本意志にとって最終となる障害が
存在しないからである。

よって人は、努力しても阻まれるから、いつも悩まざるを得ない。

「生は悩み」である、というのが彼のひとつの結論だ。

また根本意志は「理性を欠いた盲目的な迫力」であるから、
その中に残忍な暴力衝動とか殺人本能も潜んでいる。なにせ
理性がないのだから。

だから、それをもつ人間によってつくられる人間の世界は、
実はあらゆる世界(ほかの動物とかと比べてだろうか)の中で
最も悪い。

ショーペンハウアーは、社会進化とか、人類史における進歩を
承認しない。ましてや、道徳的進歩など認めない。
なぜなら、人の愚行と残虐行為は、世紀が移っても何も変わらない
からであり、ここがヘーゲルの考え方との大きな違いだ。
(個人的には、社会制度そのものは、絶対王政の頃よりは、
多少は戦争が起こりにくいものに変化してきていると思う。
ただそれが人間の理性の進化の結果とは思わないが(昔の人間は
平気で人を殺せた生物だった、とは思わない。今と人間の本質は
変わらないと思う)。道徳的進歩に関しては、ある意味ショーペン
ハウアーが正しいと思う)

とすれば、根本意志の衝動を果たそうとする、すべての努力など
むなしいものである。こうしてペシミズム(厭世主義)が訪れる。
ショーペンハウアーの哲学はペシミズムである。

ではこのペシミズムをどうやって乗り越えたらいいのか。
つづきはその2で。

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