≪近代哲学(15)−ドイツ観念論・ヘーゲルについて<その4>−≫
2004年8月1日<その3からつづき>
前までで、自己意識の自由が社会(他人)との衝突を繰り返し
ながらも、相互承認することによって調停していくという
原理が明らかになった。
それで、この「自己意識の自由」の“最終目標”はどこに
あるのかというと、これが「絶対本質」である、というので
ある。
「絶対本質」、、言葉のイメージからもわかるけど、これは
人間が本来的に、何か「絶対的なもの」、「ほんとうのもの」
を目指す心性を持っている、ということである。
考えてみれば、昔からそうだ。宗教などをイメージすれば
分かりやすい。「神」に即する色んなものが想定されている。
哲学だって、カントまでは、形而上学的な絶対者にたいする
希求が多くあった。
これをめざす人間の精神の展開のプロセスについて、
ヘーゲルは「信仰」と「啓蒙」を挙げる。
「信仰」は絶対的で超越的な「ほんとう」を、自分を超え出て
彼岸の「聖なるもの」に思い描く、という宗教行為だが、
「啓蒙」は、これの近代的な希求の形態である、という。
「神」や「キリスト」の代わりに、「誠実」「道徳」「社会」
「革命」という目標を立てるのだと。
そして「啓蒙」は幾度も挫折を繰り返しながら「良心」へと
近づいていく。
「良心(=全的に知ること)」とは、絶対的な「ほんとう」への
希求がじつは「精神」の普遍的本質に由来することを、
明確に自覚している精神のあり方のことを言うという。
良心はまた宗教を、絶対本質への希求のあらわれとして理解する。
そしてこの良心と宗教の最高の統合として、絶対知が現れるという。
要するにそれは、人間が、自分のさまざまな欲望や希求の本質を
このうえなく深い形で理解すること、を意味するのだという。
このあたりは「はじめての哲学史」の表現が平易で分かりやすい
ので、見ながらまとめるとほとんど写してしまう(いかん…)。
しかし、今の市民社会の常識は、ヘーゲルによって、哲学が
ここまでつきつめられていたわけからこそあるわけですな。
今ヘーゲルはそのあたりに目を止められずに、絶対真理の
追求とかを批判されてるようだけど、ニーチェとかマルクス・
キルケゴールはそのあたり、ちゃんと見抜いて批判してた、という
ことだろうか。
ちなみにヘーゲルの哲学は、実存論的には少し弱みがあるという。
それがどこかはさっぱりだけど、この後の実存主義者は
そこをついてくのでしょう。
さてヘーゲルの主張のまとめとして、これもはじめての哲学史から
引用します(ほかも引用しまくりだけど)。
──────────────────────────
人間は、まずは自己中心的に存在しているが、関係のなかで自分を
実現するほかないから、一定の条件さえあれば必ず他人や社会と
の「善き関係」を欲求するような原理をもっている。すると、個人
が「善き」存在たろうとして他人や社会と取り結ぶ関係の可能な
全体像をだいたいつぎのように描ける。
純粋な理想に燃える青年期の自己意識
→絶対的なものに憧れる自己滅却
→善きものを彼岸に想定する信仰→善とは世の中の困った
人のためになることをすることだという確信
→革命への情熱
→芸術表現や思想的事業にこそ真の普遍性があると信じる
社会性の意識
→そして、絶対的なものへの希求の本性への深い了解としての
「良心」…
この道すじは、人間が自分を「善きもの」へ近づけようと
しながら、徐々に自己中心的な思い込みを脱して関係のなかでの
普遍性を獲得していく、そのプロセスの必然性が見事に描かれて
いる。
────────────ここまで────────────
そして、ヘーゲルがここまで見事な洞察ができたのは、
はじめにおいている「原理」…「自己意識の自由」と「絶対本質」
が、非常に優れているからだ、としている。
また、このヘーゲルの哲学は、社会批判の思想が、どのように
あるべきか、という点においての非常に根底的な原理論たりえて
いる、という点もかなり重要だとしている。
よく、「仮に人間全員が悪人だとしても成り立つ社会が必要だ」
という話を聞くが、これはヘーゲル哲学からはじまった考え方
なのかもね。
社会関係の基本動因は、自己中心性をもった個体どうしの
ルール関係である…よくよく聞いてみればその通りだ。
ここでヘーゲルが優れているのは、キリスト教みたいに、
社会のルールをどこか超越的なものにおくのではなくて、
人間の諸関係を考察することによって得られた原理を
つかっている、という点だという。これは、ヘーゲルの
近代哲学の完成者と呼ぶにふさわしい、超一級の功績だった、
のだという。
確かに、これが本当ならば凄いことだ。
しかし不思議なのは、なんでヘーゲルはこれをもっと簡単な
言葉でかかんのやろか。(?_?)
…さて近代哲学はこれで完成を見た、というが、哲学史は
この後もまだまだ続く。
ジルソンによればきっと、「近世」はここで終わって次からは
「現代」なんだろうなぁ。でも、ここははじめての哲学史の
区分に従います。
次は、ニーチェに凄く影響を与えた哲学者、ショーペンハウアー。
その次はキルケゴール、そしてニーチェ。
前2人はビッグネームのヘーゲルの次じゃかすむけど、
しかしニーチェはこれまた、きっとヘーゲル以上に認知度は
高いですな。
前までで、自己意識の自由が社会(他人)との衝突を繰り返し
ながらも、相互承認することによって調停していくという
原理が明らかになった。
それで、この「自己意識の自由」の“最終目標”はどこに
あるのかというと、これが「絶対本質」である、というので
ある。
「絶対本質」、、言葉のイメージからもわかるけど、これは
人間が本来的に、何か「絶対的なもの」、「ほんとうのもの」
を目指す心性を持っている、ということである。
考えてみれば、昔からそうだ。宗教などをイメージすれば
分かりやすい。「神」に即する色んなものが想定されている。
哲学だって、カントまでは、形而上学的な絶対者にたいする
希求が多くあった。
これをめざす人間の精神の展開のプロセスについて、
ヘーゲルは「信仰」と「啓蒙」を挙げる。
「信仰」は絶対的で超越的な「ほんとう」を、自分を超え出て
彼岸の「聖なるもの」に思い描く、という宗教行為だが、
「啓蒙」は、これの近代的な希求の形態である、という。
「神」や「キリスト」の代わりに、「誠実」「道徳」「社会」
「革命」という目標を立てるのだと。
そして「啓蒙」は幾度も挫折を繰り返しながら「良心」へと
近づいていく。
「良心(=全的に知ること)」とは、絶対的な「ほんとう」への
希求がじつは「精神」の普遍的本質に由来することを、
明確に自覚している精神のあり方のことを言うという。
良心はまた宗教を、絶対本質への希求のあらわれとして理解する。
そしてこの良心と宗教の最高の統合として、絶対知が現れるという。
要するにそれは、人間が、自分のさまざまな欲望や希求の本質を
このうえなく深い形で理解すること、を意味するのだという。
このあたりは「はじめての哲学史」の表現が平易で分かりやすい
ので、見ながらまとめるとほとんど写してしまう(いかん…)。
しかし、今の市民社会の常識は、ヘーゲルによって、哲学が
ここまでつきつめられていたわけからこそあるわけですな。
今ヘーゲルはそのあたりに目を止められずに、絶対真理の
追求とかを批判されてるようだけど、ニーチェとかマルクス・
キルケゴールはそのあたり、ちゃんと見抜いて批判してた、という
ことだろうか。
ちなみにヘーゲルの哲学は、実存論的には少し弱みがあるという。
それがどこかはさっぱりだけど、この後の実存主義者は
そこをついてくのでしょう。
さてヘーゲルの主張のまとめとして、これもはじめての哲学史から
引用します(ほかも引用しまくりだけど)。
──────────────────────────
人間は、まずは自己中心的に存在しているが、関係のなかで自分を
実現するほかないから、一定の条件さえあれば必ず他人や社会と
の「善き関係」を欲求するような原理をもっている。すると、個人
が「善き」存在たろうとして他人や社会と取り結ぶ関係の可能な
全体像をだいたいつぎのように描ける。
純粋な理想に燃える青年期の自己意識
→絶対的なものに憧れる自己滅却
→善きものを彼岸に想定する信仰→善とは世の中の困った
人のためになることをすることだという確信
→革命への情熱
→芸術表現や思想的事業にこそ真の普遍性があると信じる
社会性の意識
→そして、絶対的なものへの希求の本性への深い了解としての
「良心」…
この道すじは、人間が自分を「善きもの」へ近づけようと
しながら、徐々に自己中心的な思い込みを脱して関係のなかでの
普遍性を獲得していく、そのプロセスの必然性が見事に描かれて
いる。
────────────ここまで────────────
そして、ヘーゲルがここまで見事な洞察ができたのは、
はじめにおいている「原理」…「自己意識の自由」と「絶対本質」
が、非常に優れているからだ、としている。
また、このヘーゲルの哲学は、社会批判の思想が、どのように
あるべきか、という点においての非常に根底的な原理論たりえて
いる、という点もかなり重要だとしている。
よく、「仮に人間全員が悪人だとしても成り立つ社会が必要だ」
という話を聞くが、これはヘーゲル哲学からはじまった考え方
なのかもね。
社会関係の基本動因は、自己中心性をもった個体どうしの
ルール関係である…よくよく聞いてみればその通りだ。
ここでヘーゲルが優れているのは、キリスト教みたいに、
社会のルールをどこか超越的なものにおくのではなくて、
人間の諸関係を考察することによって得られた原理を
つかっている、という点だという。これは、ヘーゲルの
近代哲学の完成者と呼ぶにふさわしい、超一級の功績だった、
のだという。
確かに、これが本当ならば凄いことだ。
しかし不思議なのは、なんでヘーゲルはこれをもっと簡単な
言葉でかかんのやろか。(?_?)
…さて近代哲学はこれで完成を見た、というが、哲学史は
この後もまだまだ続く。
ジルソンによればきっと、「近世」はここで終わって次からは
「現代」なんだろうなぁ。でも、ここははじめての哲学史の
区分に従います。
次は、ニーチェに凄く影響を与えた哲学者、ショーペンハウアー。
その次はキルケゴール、そしてニーチェ。
前2人はビッグネームのヘーゲルの次じゃかすむけど、
しかしニーチェはこれまた、きっとヘーゲル以上に認知度は
高いですな。
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