≪近代哲学(15)−ドイツ観念論・ヘーゲルについて<その3>−≫
2004年8月1日<その2からつづき>
さて、次はちょっと意味が分かるとこにいきましょう。
つってもはじめての哲学史が平易に書いてくれてるおかげ
なんだけど。
ここでは「精神現象学」について扱います。
この書の入門書に書いてあったことには、この本自体が、
ヘーゲルが試行錯誤しながら書いてるのであって、その
時々でほうぼうに論旨がいわば「旅をしてる」のだそうだ。
だから、全体的に秩序だった理解をしようとすると絶対
無理なんであって、ヘーゲルの旅に付き合うつもりで
読むのがいいそうだ。
ウーン、難解なだけに色々な見方があります。入門書の
長谷川宏氏はかなりヘーゲルを専門に扱ってそうなので
割と信頼はできる見解なのでしょうけども。
しかし「はじめての哲学史」では、確かに「意識の運動」
とか「弁証法」とかいろんな仕掛けがしてあって、記述は
おそろしく難解だが、その基本構想はいたってシンプルで
あるとしている。
それは、「個人としての人間が他人や社会ととりうる
関係の態度」について、考えられる一切の類型を取り出して
考察してみる、という点にある、という。
おお、分かりやすい!
重要なのは、ちょうど個人の自我が必然的にある段階的
プロセスを経て成長していくのとまったく同じ原理で、
個人と社会との関係の類型も必然的な段階的プロセスを
もつ、という観点。
全体の枠組みは3つあるらしく、
1つは、個人が「意識」→「自己意識」→「理性」という
プロセスを経て、徐々に社会的存在になっていくという流れ。
2つめ、人間の社会的な理性が、実際に具体的な社会制度
という形をとて「現実化」していく、その歴史的な流れ。
具体的には、ギリシャの共同体的人倫、キリスト教的隣人愛、
中世の貴族的忠誠心、近代の市民革命(ヘーゲルはフランスの
市民革命を見て感銘を受けたらしい)→市民社会、という
プロセス。
3つめ、精神が自分の本質を自覚していく歴史としての
宗教史の流れ。これが前の2つと統合されて、「絶対知」に
いたる、らしい。
しかしこの進歩史観は微妙な部分もあるらしい。
そのまま受け取れる部分と、そうでない部分があるのだろう。
ただ、ヘーゲルがこれを描く際においている、原理的な
考察が、非常に本質的に優れている、とはじめての哲学史では
言っている。ここが重要である(らしい)。
それは何か?
まず彼は、「世界」とは、単なる自然=環境の世界では
なく、多くの人間の精神のありようが織りなす複雑な“人間関係の
網の目の総体”だ、と考えた。
だから、世界の全体像を捉えようとするなら、まずこの関係の
網の目を動かす基本動因をしっかり確定し、つぎに
この動因による展開のプロセスとして世界を描くという方法以外
にはなく、したがって、「世界」それ自体の認識の可能性を
問うても無意味なのである、という。
この基本前提が、抜群に優れている、らしい。
その基本動因を、ヘーゲルは「自己意識の自由」と、「絶対本質」
(絶対実在という訳もあるそうだ)だと考える。
このあたりはフィヒテでも言われていたけど、「自己意識の自由」
は、人間は本質的に自分の欲望に対して「自由であろうとする」
存在であるということ。
事実としてそうでなくても、人間はつねに、自分が世界の主人公で
ありたいと思っている。それをヘーゲルはこんな具合に言う。
人間はみな本来自由な存在だというわけではない。しかしどんな
人間も必ず「自由」であろうとする本性をもっている、と。
建前はともかく、人間はとりあえず絶対的な自己中心性を持ちつつ
他人と関係している。
カントの考えたような道徳的意識を中心とするのは思想としては
弱くて、ヘーゲルはカント哲学を、それではまだ甘い、と批判した
らしい。
これがまず、人間同士の諸関係を編み上げていく上での基本原理
だという。
まぁ、現代人の感覚的にも十分理解できる考え方だ。むしろ
今では、こんなこと当然と思われていることでもある。
(というか、人間は皆自己中なんだ、とかいう極論をよく聞く)
しかしデカルト〜カントまでは少なくとも、人間は素直に
理性による道徳的意識には従うと思っていた。
ここで人間の本来的な自己中心性を逃してしまうと、どうしても
理念先行型の現実味のない思想になってしまうのだそうである。
そのあたりで比べると、ヘーゲルやニーチェの哲学の優位は
揺るがないらしい。
(う〜ん、らしい、が多い)
そしてヘーゲルによれば、そういう自己中心性をもった人間関係
は、はじめは「主と奴隷」の関係からはじまる、という。
というのは、お互いがお互いの自己中心性を通そうとして、
勝ったほうが主人、負けたほうが奴隷になるわけだが、これが
(個人の)歴史的には初期の段階。だんだん、他人との調停を
しつつ、自己実現するすべを身につけていく。
ちなみにこれは社会体制にも言える。
人間社会だけが他人のための強制労働を生み出し、富や権力構造を
つくり、国家体制を作り出す。しかしそれは、「自己意識の自由」、
人間の自己中心性という本性に由来するのだという。
確かにその通りだ、と思う。理念だけで考えると、しかし
こういう観点は逃がしがちである気がするが、ヘーゲルは
前提として当然のようにこれを設置した、というわけだ。
このあたりは、フィヒテの影響もあるんじゃないかなぁ。
わかんないけど。
ともあれ、この考え方だと、原始時代から、国家のはじまり、
そして市民社会の成り立ちがうまく説明できるのである。
最初はお互い、自己中心性ばかり主張していてぶつかり合う。
殺し合いもする。負けた人を奴隷のように扱いもする。
しかし、次第に、お互いの「自己意識の自由」を最大限発現
させるためには、各人が各人の自由を相互に承認しあう
ことが最善であると、やがて気づくのである。
事実、人間個人と同じように、人間の社会もそのような
プロセスを経て発展してきた。そしてヘーゲルによれば、
市民社会の実現こそがその最終段階なのである。
しかしヘーゲルは、市民社会だけでは、酷い競争社会に陥る
(実際、資本主義は競争のせいで酷い矛盾も生み出した)
ので、それを防ぐために立憲君主的国家を、その調停として
つくることを考えたそうだ。
そのあたりはちょっと前時代的だが、時代性の限界のせいもあり、
さきの優れた原理を否定する理由にはならない、とはじめての
哲学史では言っている。これは今の市民社会でも十分通用する
原理的思想だからだ。
さて、このへんで「自己意識の自由」の話はおしまい。
次、「絶対本質」の話です。その4へ。
さて、次はちょっと意味が分かるとこにいきましょう。
つってもはじめての哲学史が平易に書いてくれてるおかげ
なんだけど。
ここでは「精神現象学」について扱います。
この書の入門書に書いてあったことには、この本自体が、
ヘーゲルが試行錯誤しながら書いてるのであって、その
時々でほうぼうに論旨がいわば「旅をしてる」のだそうだ。
だから、全体的に秩序だった理解をしようとすると絶対
無理なんであって、ヘーゲルの旅に付き合うつもりで
読むのがいいそうだ。
ウーン、難解なだけに色々な見方があります。入門書の
長谷川宏氏はかなりヘーゲルを専門に扱ってそうなので
割と信頼はできる見解なのでしょうけども。
しかし「はじめての哲学史」では、確かに「意識の運動」
とか「弁証法」とかいろんな仕掛けがしてあって、記述は
おそろしく難解だが、その基本構想はいたってシンプルで
あるとしている。
それは、「個人としての人間が他人や社会ととりうる
関係の態度」について、考えられる一切の類型を取り出して
考察してみる、という点にある、という。
おお、分かりやすい!
重要なのは、ちょうど個人の自我が必然的にある段階的
プロセスを経て成長していくのとまったく同じ原理で、
個人と社会との関係の類型も必然的な段階的プロセスを
もつ、という観点。
全体の枠組みは3つあるらしく、
1つは、個人が「意識」→「自己意識」→「理性」という
プロセスを経て、徐々に社会的存在になっていくという流れ。
2つめ、人間の社会的な理性が、実際に具体的な社会制度
という形をとて「現実化」していく、その歴史的な流れ。
具体的には、ギリシャの共同体的人倫、キリスト教的隣人愛、
中世の貴族的忠誠心、近代の市民革命(ヘーゲルはフランスの
市民革命を見て感銘を受けたらしい)→市民社会、という
プロセス。
3つめ、精神が自分の本質を自覚していく歴史としての
宗教史の流れ。これが前の2つと統合されて、「絶対知」に
いたる、らしい。
しかしこの進歩史観は微妙な部分もあるらしい。
そのまま受け取れる部分と、そうでない部分があるのだろう。
ただ、ヘーゲルがこれを描く際においている、原理的な
考察が、非常に本質的に優れている、とはじめての哲学史では
言っている。ここが重要である(らしい)。
それは何か?
まず彼は、「世界」とは、単なる自然=環境の世界では
なく、多くの人間の精神のありようが織りなす複雑な“人間関係の
網の目の総体”だ、と考えた。
だから、世界の全体像を捉えようとするなら、まずこの関係の
網の目を動かす基本動因をしっかり確定し、つぎに
この動因による展開のプロセスとして世界を描くという方法以外
にはなく、したがって、「世界」それ自体の認識の可能性を
問うても無意味なのである、という。
この基本前提が、抜群に優れている、らしい。
その基本動因を、ヘーゲルは「自己意識の自由」と、「絶対本質」
(絶対実在という訳もあるそうだ)だと考える。
このあたりはフィヒテでも言われていたけど、「自己意識の自由」
は、人間は本質的に自分の欲望に対して「自由であろうとする」
存在であるということ。
事実としてそうでなくても、人間はつねに、自分が世界の主人公で
ありたいと思っている。それをヘーゲルはこんな具合に言う。
人間はみな本来自由な存在だというわけではない。しかしどんな
人間も必ず「自由」であろうとする本性をもっている、と。
建前はともかく、人間はとりあえず絶対的な自己中心性を持ちつつ
他人と関係している。
カントの考えたような道徳的意識を中心とするのは思想としては
弱くて、ヘーゲルはカント哲学を、それではまだ甘い、と批判した
らしい。
これがまず、人間同士の諸関係を編み上げていく上での基本原理
だという。
まぁ、現代人の感覚的にも十分理解できる考え方だ。むしろ
今では、こんなこと当然と思われていることでもある。
(というか、人間は皆自己中なんだ、とかいう極論をよく聞く)
しかしデカルト〜カントまでは少なくとも、人間は素直に
理性による道徳的意識には従うと思っていた。
ここで人間の本来的な自己中心性を逃してしまうと、どうしても
理念先行型の現実味のない思想になってしまうのだそうである。
そのあたりで比べると、ヘーゲルやニーチェの哲学の優位は
揺るがないらしい。
(う〜ん、らしい、が多い)
そしてヘーゲルによれば、そういう自己中心性をもった人間関係
は、はじめは「主と奴隷」の関係からはじまる、という。
というのは、お互いがお互いの自己中心性を通そうとして、
勝ったほうが主人、負けたほうが奴隷になるわけだが、これが
(個人の)歴史的には初期の段階。だんだん、他人との調停を
しつつ、自己実現するすべを身につけていく。
ちなみにこれは社会体制にも言える。
人間社会だけが他人のための強制労働を生み出し、富や権力構造を
つくり、国家体制を作り出す。しかしそれは、「自己意識の自由」、
人間の自己中心性という本性に由来するのだという。
確かにその通りだ、と思う。理念だけで考えると、しかし
こういう観点は逃がしがちである気がするが、ヘーゲルは
前提として当然のようにこれを設置した、というわけだ。
このあたりは、フィヒテの影響もあるんじゃないかなぁ。
わかんないけど。
ともあれ、この考え方だと、原始時代から、国家のはじまり、
そして市民社会の成り立ちがうまく説明できるのである。
最初はお互い、自己中心性ばかり主張していてぶつかり合う。
殺し合いもする。負けた人を奴隷のように扱いもする。
しかし、次第に、お互いの「自己意識の自由」を最大限発現
させるためには、各人が各人の自由を相互に承認しあう
ことが最善であると、やがて気づくのである。
事実、人間個人と同じように、人間の社会もそのような
プロセスを経て発展してきた。そしてヘーゲルによれば、
市民社会の実現こそがその最終段階なのである。
しかしヘーゲルは、市民社会だけでは、酷い競争社会に陥る
(実際、資本主義は競争のせいで酷い矛盾も生み出した)
ので、それを防ぐために立憲君主的国家を、その調停として
つくることを考えたそうだ。
そのあたりはちょっと前時代的だが、時代性の限界のせいもあり、
さきの優れた原理を否定する理由にはならない、とはじめての
哲学史では言っている。これは今の市民社会でも十分通用する
原理的思想だからだ。
さて、このへんで「自己意識の自由」の話はおしまい。
次、「絶対本質」の話です。その4へ。
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