<その1からつづき>

最初に、「絶対精神」の体系について。

著書の中でよく見る用語は絶対精神ではなくて、「分裂」。
キーワードとしては「絶対精神(絶対知)」のほうが重要かも
しれないけど、こっちのほうが確か多い。

またこの「分裂」がよくわからなくて、哲学史の本の簡潔な説明、
入門書の原著を引用しながらの説明でもあんまり分からない。
フィヒテの考え方の応用と考えるといいのだろうか?

 
ヘーゲルの哲学の基本モチーフは分裂の合一、ないしは対立の統一、
らしい。彼はあらゆるところに分裂を見、政治、社会、宗教、
あらゆるところに分裂があるという。

分裂は究極的には主観と客観の分裂に帰着する(?)。

ヘーゲルいわく「分裂が哲学を要求する」のである(??)。

諸説対立ということだろうか、もしくはどれかを「自我」と
設定してそれの「非我」になるんだろうか。どうだろう。
後者っぽい気もするが、なんで全部主観と客観にいきつくのか??
客観というとカントでいうと「もの自体」のことだろうけど…
それは認識不可能と結論が出たはずでは…。いや、分からない。

 
分裂を克服するもの、それが理性である。
そのモデルは「生(生命)」である。

ヘーゲルは分裂を排除するという仕方でそれを克服しようとする
のではない。それでは分裂と合一がふたたび対立することになる
から(合一させようとすれば、それと分裂が対立するということ
か。しかしなんのことかよく分からん)。

ヘーゲルいわく
「永遠に対立を措定(*)しながら事故を形成してゆく生は、
分裂をその必然的な契機としてもつ。生の総体が最もいきいきと
するのは、分裂が最高になった状態から回復するときである」

 
(*そてい。意味は2つあって…

(1)「 S は P である」「 A が存在する」というように、ある命題を
端的に主張する働き。事物の存在を肯定したり、その内容を明瞭に
示すこと。定立。

(2)推論の前提として、とりあえず肯定された、いまだ証明されて
いない命題。定立。

さて、どっちでしょう)

 
生はそれ自身、分裂と合一の合一とでもいうべき運動体である。
理性はこの生の論理である(???)。

意味が分からないので要約不可能です。ほぼ、昭和堂の文章
そのまま。

 
このへんで、カントの言ってた「悟性」が出てくる。これもまた…

理性に対して、悟性は分裂を固定化する、とヘーゲルは考える。

その固定を破壊して流動化させて、分裂においてすでにある
統一をそれとして提示するのが理性。

ヘーゲルいわく
「理性は分裂されたものを結合し、絶対的となった分裂を根源的
同一性によって制約されている総体的な分裂へと引き下げる」

悟性はイギリス経験論を経てカントに流れ込んだもので、
ヘーゲルはこれに理性を対置すると(カントって理性を批判して
限界を定めなかったか…?カントとヘーゲルでいう理性は
意味が違うようだ)。

悟性は矛盾を忌避するが、理性はそうではないらしい。

「矛盾は真なるものの基準であり、無矛盾は偽なるものの基準である」

意味不明だけど、カントが誤謬や仮象に陥るとした理性に、
積極的な意味を与えた、らしい。らしい。らしい…ほんとに
「らしい」としか…

ちなみにこの理性が「絶対精神」「絶対知」であるとか。

 
このあたりまで説明がきたところで、昭和堂では

「しかし、彼の哲学の根本は以上でつきている」と、言う。

 
つきているのはいいのだけど、さっぱり意味が…

 
この後も、精神現象学からつづく彼の哲学の体系の説明が
なされますが、同じような感じで何を言っているのか分かりません。
原著読んだらもっと何言ってるのか不明ですな絶対。

 
でもそれではなんだし、少しは意味がわかる、彼の言った
有名な言葉をあげます。

「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」

これは、彼の哲学史観からもきているようで、理性の現実化の
過程であった哲学史を敷衍しての言葉でしょうか。
え、違うの?(ノДT)

 
まぁ、いいや。そのうちがんばって読む。

これで分かった気になってもまずいとは思うんですが、
最後に「はじめての哲学史」から少し言葉を借りましょう。

「ヘーゲル哲学は大きな体系をなしているが、これがなかなか
難物だが、いちばん根本に「絶対精神」なるものがある。
これが弁証法(ヘーゲルでは、自己否定を乗り越えることで
自己を高めていく運動、みたいな意味?安易にしすぎかも)
的な運動を行って、世界の存在自体をいわば産出する、という
イメージがある。ここから自然哲学、論理学、精神哲学という
大きな3つの枠組みが立てられる。世界の一切を「絶対精神」の
運動として捉え、この3つの側面をそれぞれ体系的に記述した
ものと考えればいい。自然、人間の意識、そして歴史や社会の
ありようを、その必然的運動の全体的統一として捉える、という
発想である」(( )内引用者)

これなら少しは意味が分かる。と同時に、これをヘーゲルみたいに
難しく語られたら意味不明になるのもなんとなく分かる。

まぁ意味不明ということが分かっただけでもいいかも。
「無知の知」ということで…

その3につづく。

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