≪近代哲学(15)−ドイツ観念論・ヘーゲルについて<その1>−≫
2004年8月1日さて、次は近代哲学最大のビッグネーム、ヘーゲル(1770〜1831)に
いきます。
フルネームはゲオルグ・ウィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲル。
フロイトとかキルケゴールもけっこうかっこいい名前だけど、これも
なんかかっこいい名前ですな。
ヘーゲルは、今プラトンとならんで最も批判されている哲学者だと
いう。その理由は、ニーチェも激しく攻撃した「絶対的真理」の
追求の哲学を打ち立てたからだろうか。まだ詳しい理由は俺には
わからない。悪しき進歩史観、とか、立憲君主制を擁護した、
とか、自らの哲学のもとにすべてのものを体系づけようとした
傲慢な哲学者、とか、なんだかいろいろといわれている。
ともあれ、今でなくても、ニーチェもマルクスもキルケゴールも
ヘーゲルを批判している。何かと批判者の多い人。それだけ
影響力も強かったということだろうね。
とりあえず、「はじめての哲学史」と「西洋哲学史(昭和堂)」では
かなり扱いが違う。昭和堂はかなり客観的、冷静にヘーゲルの哲学の
全般を敷衍し、最後に批判と肯定的意見を少し述べているが、
はじめての哲学史では、ヘーゲルの著作「精神現象学」に力点をおいて、
ヘーゲルの最大の功績とされるこの著作を、かなり好意的に扱っている。
好意的に扱っているとはヘンかもしれない。単に捉え方の違いだろう
か。はじめての哲学史から言うと、ヘーゲルの哲学の真骨頂はそこに
こそあり、そしてそれが他の哲学者には見出しえなかった、彼の
構築した卓越した思想なのだという。
彼は哲学をはじめて歴史的に扱った(と同時に、歴史と共に不可逆な
形で進歩していく、理性の発展の歴史とも取った)人ということで
有名だが、他にも、出世作である「精神現象学」、次に「論理学」、
「エンチクロペディー」、「法の哲学」などなど著作をいろいろと
出している。「精神現象学」は、ふつうその後に続く著作の
序論的な位置しかもっていないというふうに取られるらしい。
実際、そういう部分も大きいようだ。ヘーゲルの哲学は「絶対精神」
とか「絶対知」がキーワードとして語られていて、世界をその
絶対精神のもとに秩序付けるような体系が描かれるらしいが、その
体系から見れば、精神現象学はそういう位置づけになる、らしい。
俺個人の感想を言わせてもらうと、この絶対精神という考え方は、
入門書を読んでてもさっぱり理解ができません。哲学における
理性史(?)の進歩史観(ヘーゲルは、これが自分において完成した
と言ったとか?)とか、全てを自分の哲学で説明づけようとしたこと、
あるいはシェリングと同じように、ロマン主義に影響されたちょっと
神秘的な思想が背景にあるために、今の俺にはちっともピンとこない
考え方なのかもしれない(まだ入門書読破してないけど)。
「はじめての哲学史」でも、この「絶対精神」という考え方は、
なんだか汎神論的なあいまいさをぬぐえないし、ここにヘーゲル哲学の
功績はほとんどない、と言っている。
またアリストテレス的体系性(世界のすべてを哲学の体系として
説明しようとする)、スピノザ的一元論(世界の総体を根本的な
1つの原理から説明しようとする)、ドイツ・ロマン派的な自然と
精神一体観、などの、いわば哲学的には遺物となった考え方が軸に
なっているにすぎない、と言っている(けっこうひどいかも…)。
昭和堂はどうかというと、人間の理性を絶対知の高みにまでのぼり
つめさせてしまったのはどうか、とは批判しているが、メルロ=
ポンティの「総合なき弁証法」(←これも浅学者には意味が分かり
ませんが(汗))という言葉を引用して、少々肯定的には捉えている
んだろうか、よくはわからない。
ともあれ、あんまりこの「絶対精神」自体はいただけないようだ。
しかし、ヘーゲルはこの絶対精神の体系に自らの哲学をささげたハズ。
それがダメだということは、なんでフィヒテやシェリングをおしのけて
勝利者、近代哲学の完成者になったのか?
というのはひとつには、ヘーゲルがはじめて哲学を歴史的に扱い、
自分をその完成者であると言ったことと、
すべてを包括するかのような絶対精神(絶対知)にいたる壮大な体系に
よることがある、らしい。
よって、この後の哲学はヘーゲル哲学の解体作業、とも言われるよう
だが…しかし、これを理由に完成者、勝利者と呼ばれるのはちょっとヘン。
それだったら、自称完成者がたくさんいそうだからだ。
絶対精神の思想そのものはたいしたことはないのに、そう呼ばれるのは
なんでか…
ヘーゲルのいた頃はまだ、この哲学の完成、真理の体系は信じられて
いたかも、というのもあるけど、、
哲学の歴史は人間の理性の不可逆的な進歩の歴史である、というのは
実際、マルクスに受け継がれた思想で、これがかの共産主義思想の
源泉になった、、、という話も小耳に挟む。
社会主義国が失敗するまでは、ヘーゲルは絶賛されていたのかも
しれない。近代哲学の完成者というのは、ひょっとしてその頃に
呼ばれていたのかも…(で、マルクスがそれを押し進めたのか?)。
その名残で呼ばれているにすぎない、ということも、ひょっとして
あるんだろうか。このへんはまだ浅学過ぎてよく分からない。
しかし、「はじめての哲学史」では、その点はあんまり問題に
しない。完成者と呼ぶにふさわしい功績があるという。
(ただこの哲学史は傍流なので、完成者と俗に「呼ばれる」の
には、また別の理由があるはず)
ともあれ、この「絶対精神」の体系と、はじめての哲学史で
扱う事項と、このふたつをまとめていきたいと思います。
その2につづく。
いきます。
フルネームはゲオルグ・ウィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲル。
フロイトとかキルケゴールもけっこうかっこいい名前だけど、これも
なんかかっこいい名前ですな。
ヘーゲルは、今プラトンとならんで最も批判されている哲学者だと
いう。その理由は、ニーチェも激しく攻撃した「絶対的真理」の
追求の哲学を打ち立てたからだろうか。まだ詳しい理由は俺には
わからない。悪しき進歩史観、とか、立憲君主制を擁護した、
とか、自らの哲学のもとにすべてのものを体系づけようとした
傲慢な哲学者、とか、なんだかいろいろといわれている。
ともあれ、今でなくても、ニーチェもマルクスもキルケゴールも
ヘーゲルを批判している。何かと批判者の多い人。それだけ
影響力も強かったということだろうね。
とりあえず、「はじめての哲学史」と「西洋哲学史(昭和堂)」では
かなり扱いが違う。昭和堂はかなり客観的、冷静にヘーゲルの哲学の
全般を敷衍し、最後に批判と肯定的意見を少し述べているが、
はじめての哲学史では、ヘーゲルの著作「精神現象学」に力点をおいて、
ヘーゲルの最大の功績とされるこの著作を、かなり好意的に扱っている。
好意的に扱っているとはヘンかもしれない。単に捉え方の違いだろう
か。はじめての哲学史から言うと、ヘーゲルの哲学の真骨頂はそこに
こそあり、そしてそれが他の哲学者には見出しえなかった、彼の
構築した卓越した思想なのだという。
彼は哲学をはじめて歴史的に扱った(と同時に、歴史と共に不可逆な
形で進歩していく、理性の発展の歴史とも取った)人ということで
有名だが、他にも、出世作である「精神現象学」、次に「論理学」、
「エンチクロペディー」、「法の哲学」などなど著作をいろいろと
出している。「精神現象学」は、ふつうその後に続く著作の
序論的な位置しかもっていないというふうに取られるらしい。
実際、そういう部分も大きいようだ。ヘーゲルの哲学は「絶対精神」
とか「絶対知」がキーワードとして語られていて、世界をその
絶対精神のもとに秩序付けるような体系が描かれるらしいが、その
体系から見れば、精神現象学はそういう位置づけになる、らしい。
俺個人の感想を言わせてもらうと、この絶対精神という考え方は、
入門書を読んでてもさっぱり理解ができません。哲学における
理性史(?)の進歩史観(ヘーゲルは、これが自分において完成した
と言ったとか?)とか、全てを自分の哲学で説明づけようとしたこと、
あるいはシェリングと同じように、ロマン主義に影響されたちょっと
神秘的な思想が背景にあるために、今の俺にはちっともピンとこない
考え方なのかもしれない(まだ入門書読破してないけど)。
「はじめての哲学史」でも、この「絶対精神」という考え方は、
なんだか汎神論的なあいまいさをぬぐえないし、ここにヘーゲル哲学の
功績はほとんどない、と言っている。
またアリストテレス的体系性(世界のすべてを哲学の体系として
説明しようとする)、スピノザ的一元論(世界の総体を根本的な
1つの原理から説明しようとする)、ドイツ・ロマン派的な自然と
精神一体観、などの、いわば哲学的には遺物となった考え方が軸に
なっているにすぎない、と言っている(けっこうひどいかも…)。
昭和堂はどうかというと、人間の理性を絶対知の高みにまでのぼり
つめさせてしまったのはどうか、とは批判しているが、メルロ=
ポンティの「総合なき弁証法」(←これも浅学者には意味が分かり
ませんが(汗))という言葉を引用して、少々肯定的には捉えている
んだろうか、よくはわからない。
ともあれ、あんまりこの「絶対精神」自体はいただけないようだ。
しかし、ヘーゲルはこの絶対精神の体系に自らの哲学をささげたハズ。
それがダメだということは、なんでフィヒテやシェリングをおしのけて
勝利者、近代哲学の完成者になったのか?
というのはひとつには、ヘーゲルがはじめて哲学を歴史的に扱い、
自分をその完成者であると言ったことと、
すべてを包括するかのような絶対精神(絶対知)にいたる壮大な体系に
よることがある、らしい。
よって、この後の哲学はヘーゲル哲学の解体作業、とも言われるよう
だが…しかし、これを理由に完成者、勝利者と呼ばれるのはちょっとヘン。
それだったら、自称完成者がたくさんいそうだからだ。
絶対精神の思想そのものはたいしたことはないのに、そう呼ばれるのは
なんでか…
ヘーゲルのいた頃はまだ、この哲学の完成、真理の体系は信じられて
いたかも、というのもあるけど、、
哲学の歴史は人間の理性の不可逆的な進歩の歴史である、というのは
実際、マルクスに受け継がれた思想で、これがかの共産主義思想の
源泉になった、、、という話も小耳に挟む。
社会主義国が失敗するまでは、ヘーゲルは絶賛されていたのかも
しれない。近代哲学の完成者というのは、ひょっとしてその頃に
呼ばれていたのかも…(で、マルクスがそれを押し進めたのか?)。
その名残で呼ばれているにすぎない、ということも、ひょっとして
あるんだろうか。このへんはまだ浅学過ぎてよく分からない。
しかし、「はじめての哲学史」では、その点はあんまり問題に
しない。完成者と呼ぶにふさわしい功績があるという。
(ただこの哲学史は傍流なので、完成者と俗に「呼ばれる」の
には、また別の理由があるはず)
ともあれ、この「絶対精神」の体系と、はじめての哲学史で
扱う事項と、このふたつをまとめていきたいと思います。
その2につづく。
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