フィヒテのうなずける哲学に対して、シェリング(1775〜1854)の
「積極哲学」はちょっと、ほんとにカント読んだ?という哲学のようだ。

このころ、ドイツにはロマン主義(18世紀末〜19世紀にかけて
ヨーロッパに広まった精神的傾向、らしい。近代的個人主義を根底に
おくが、理性とか論理より、自然とか超自然的なものにあこがれる
考え方、という感じかも(詳しくは辞書))が広まっていたらしくて
その影響が強く見られるとか。

同じ時代に生きても、著書を出す順番はあるだろうので…シェリングは
フィヒテの「自我」を拡張させて、独自の哲学を構築した。

自我と非我、主観と客観、精神と自然という対立するものの根底に
完全な「無差別」、絶対的同一性としての絶対者を立てて、
ここから対立が生じると考えたところがフィヒテと違うところ。

ただこれは、ト・ヘンとかスピノザの神とかと、どう違うのか、と
聞かれると困るところ。ともあれ、シェリングは初期から後期に行く
ほど、こういった絶対的な「神」のようなものを想定して、
人間と自然との一体を説くような哲学になってしまったらしい。

人間は論理とか理性的な考えによって、真理に近づけるのではない。
「啓示」とか「神話」を直観することによって、人間は世界の
<ほんとう>にたどりつけると考えるに至ったという。

さすがにこれは…という感じもしないでもないが、カントが
「もの自体」は神にしか認識できない、人間の理性には限界がある、
と言ったところを踏襲しているとも取れる。

ともあれ、自身が「積極哲学」と称し、フィヒテやヘーゲルの哲学を
「消極哲学」と読んで批判したというけども、ちょっと前時代的かつ
積極に過ぎるのではないかと思わないでもない。ロマン主義の影響が
やはり大きいのだろう。

ただ「はじめての哲学史」では、シェリングのこの考え方は、
理性とか論理によって世界のほんとうに近づいていけるという
人間のおごった考え方が今、環境破壊とか社会主義の崩壊、
資本主義の矛盾を露呈させているところを考えると、シェリングの
こうした考え方の<芯>は今一度評価しなおし、受け継がれても
いいのではないか、と言っている。

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