≪近代哲学(13)−ドイツ観念論・フィヒテについて−≫
2004年7月29日さて、カント哲学が残した問題には、信念のつくられかた以外
にも、「果たして道徳的理念を認識したからといって、人間は
それにただ従うか?」というものが、実はある。
たぶん他にも細かい課題はあると思うけど、この後のドイツ観念論
で突っつかれるのはそこだという。
フィヒテ(1762〜1814)はカントの哲学を踏襲していた。はじめは
自分の哲学とそれはぴったり重なると思っていたが、しだいに
自我の捉え方に不満をおぼえてきて、そこからフィヒテの
独自の哲学の構築がはじまる。キーワードは「自我」であると
いう。
ちなみにフィヒテもこの後のシェリングもヘーゲルと同時期の
人で…シェリングなんかは、一時期ヘーゲルとともに雑誌を
刊行してたりした。
で、お互いの考えがすれ違うにいたってお互いを批判してたり
してたが、結局勝利したのはヘーゲルである。
だもんで、昭和堂でのフィヒテとシェリングの扱いは2人で
1ページと非常に軽い。ただ同じ時代の3人であったので、
お互いに刺激し合い、影響され合っただろうと思うし、
ほかの2人の哲学をも読み込んだであろう。
ではフィヒテの哲学の紹介にいきます。
不満があったとはいえカントの哲学の完成度は凄かったので、
その不満点を解消することをフィヒテは考えただろうと思う。
カントにおいては、「認識する理論的存在」としての人間と、
「欲望をもち行為し実践する存在としての人間」という2つの
本質が、バラバラに捉えられていて統一的でない、とフィヒテは
思った。そこが不満だったのである。この2つはともに人間の
重要な本質だが、これをバラバラに論じるだけではなくて、
その関連性を把握する論理を採らなければならない、と
フィヒテは考えた。
「認識する理論的存在」は、さきにカントで示された、
分析判断と総合判断をする人間の理論的側面のことだと思う。
真、善、美でいうと「真」?
「欲望をもち行為し実践する存在としての人間」は、これは
欲望につき動かされ、これを果たそうとする人間の存在の仕方。
のこりの「善、美」と人間のもつ欲望のことだろうか。
カントではこれが個々に論じられてたにすぎない、らしい。
それで、これをどう関係付けながら論じるのだろう。
まずフィヒテがすべての起点としておいたのが「自我」。
そして、この自我を起点に世界を描くと、こうなる。
[第一原則(原理)]
自我は自我に等しい(自我=自我)。
難しく書くと、「自我は根源的に自己自身の存在を定立する」。
[第二原則]
自我に対して絶対的に非我(ひが)が対置される。
難「自我に対して、非我が絶対的に対立させられる」
[第三原則]
自我は自我のうちで分割可能な自我に分割可能な非我を対置する。
難「(絶対的)自我は自己の内部で可分的自我に対して可分的
非我を対立させる」
予備知識なしに、これ読んだだけでなんのことか分かる人は、
哲学の素質があると思う。アホの俺を基準にしてはいかんか。
ぱっと見て意味不明なんだけど、なんか意味ありげな文章、
これがある意味哲学の真骨頂である。
第三原則なんて何言ってるのか分からない。
ともあれ、解釈をみてみましょう。
しかし「はじめての哲学史」の解釈がないと、ほとんど意味が
分からないところだ。
第一原則の意味は、人間は「俺は(誰の力も、何の力も頼らず俺だ」
という確信をもって振舞う存在であることを示唆しているという。
確かにその通りだ。しかし、人間はひとりで生きているわけでは
ない。こうした考えは、必ず現実社会で挫折の憂き目に遭う。
つまり、我々のそれぞれが「俺は俺だ」という態度で、自分の欲望を
全部果たそうと思って行動すれば、必ず障害にぶちあたってそれが
できなくなる、ということだ。
これはなんとなく分かる。
第二原則の「非我」は、この社会とか、自分が生きていくにあたって
第一原則を妨害するようなもののことを言うらしい。
非我、自分以外、は確かに、自我にとってそのようなものとして表れる。
ちなみにこの段階では、この非我は邪魔者としか思えておらず、その
原因が探れていない。不満をおぼえるだけになる。
第三原則、この段階では、ようやく、その原因を自我が認識するように
なる。
「自由」というと普通、欲望のままに好き勝手振舞うことだと思い
がちである(これは第一原則の段階のこと)。しかしそんなことは
どだい無理である。では、人間に「自由」はないのか?
いや、フィヒテによれば、これは第三原則(段階)で解決されるのだ。
自我がだんだんと段階を踏みながら非我を克服して、自らを鍛えあげて
いく姿そのものが、真の自由のあり方なのである、とフィヒテは考えた。
これが、自我と非我を、すべてではないが、可能(可分的な)な部分は
調停させるという、現実的な人間のあり方から考えられたものなんだろう。
カントでは、道徳的に振舞えることが人間の「自由」なのであるとした。
しかしフィヒテはそのようには考えない。人間の本質は「欲望(自我)」
である。これと現実(非我)との調停(可分的な部分を対置する)にこそ
(おそらく)道徳的振る舞いがある(ありうる)のであり、その段階を
経ていくことこそが「自由」なのである、というわけだ。
これで、カントが別々に扱った人間の2つの本質が、繋がったことに
なる。
うーむ、ヘーゲルはもっと優れた考え方をしてたんだろうか。
これもなかなかいけてる気もする。
ちなみに昭和堂の解釈では、フィヒテは、自我の中に非我をとりこむ
ことによって、「もの自体」をしりぞけたのだ、としている。
フィヒテを読むとそういう書き方もしてあるのだろうか。
しかし上の意味もあるのであれば、これはそう重要な部分でもない
ように思う。
にも、「果たして道徳的理念を認識したからといって、人間は
それにただ従うか?」というものが、実はある。
たぶん他にも細かい課題はあると思うけど、この後のドイツ観念論
で突っつかれるのはそこだという。
フィヒテ(1762〜1814)はカントの哲学を踏襲していた。はじめは
自分の哲学とそれはぴったり重なると思っていたが、しだいに
自我の捉え方に不満をおぼえてきて、そこからフィヒテの
独自の哲学の構築がはじまる。キーワードは「自我」であると
いう。
ちなみにフィヒテもこの後のシェリングもヘーゲルと同時期の
人で…シェリングなんかは、一時期ヘーゲルとともに雑誌を
刊行してたりした。
で、お互いの考えがすれ違うにいたってお互いを批判してたり
してたが、結局勝利したのはヘーゲルである。
だもんで、昭和堂でのフィヒテとシェリングの扱いは2人で
1ページと非常に軽い。ただ同じ時代の3人であったので、
お互いに刺激し合い、影響され合っただろうと思うし、
ほかの2人の哲学をも読み込んだであろう。
ではフィヒテの哲学の紹介にいきます。
不満があったとはいえカントの哲学の完成度は凄かったので、
その不満点を解消することをフィヒテは考えただろうと思う。
カントにおいては、「認識する理論的存在」としての人間と、
「欲望をもち行為し実践する存在としての人間」という2つの
本質が、バラバラに捉えられていて統一的でない、とフィヒテは
思った。そこが不満だったのである。この2つはともに人間の
重要な本質だが、これをバラバラに論じるだけではなくて、
その関連性を把握する論理を採らなければならない、と
フィヒテは考えた。
「認識する理論的存在」は、さきにカントで示された、
分析判断と総合判断をする人間の理論的側面のことだと思う。
真、善、美でいうと「真」?
「欲望をもち行為し実践する存在としての人間」は、これは
欲望につき動かされ、これを果たそうとする人間の存在の仕方。
のこりの「善、美」と人間のもつ欲望のことだろうか。
カントではこれが個々に論じられてたにすぎない、らしい。
それで、これをどう関係付けながら論じるのだろう。
まずフィヒテがすべての起点としておいたのが「自我」。
そして、この自我を起点に世界を描くと、こうなる。
[第一原則(原理)]
自我は自我に等しい(自我=自我)。
難しく書くと、「自我は根源的に自己自身の存在を定立する」。
[第二原則]
自我に対して絶対的に非我(ひが)が対置される。
難「自我に対して、非我が絶対的に対立させられる」
[第三原則]
自我は自我のうちで分割可能な自我に分割可能な非我を対置する。
難「(絶対的)自我は自己の内部で可分的自我に対して可分的
非我を対立させる」
予備知識なしに、これ読んだだけでなんのことか分かる人は、
哲学の素質があると思う。アホの俺を基準にしてはいかんか。
ぱっと見て意味不明なんだけど、なんか意味ありげな文章、
これがある意味哲学の真骨頂である。
第三原則なんて何言ってるのか分からない。
ともあれ、解釈をみてみましょう。
しかし「はじめての哲学史」の解釈がないと、ほとんど意味が
分からないところだ。
第一原則の意味は、人間は「俺は(誰の力も、何の力も頼らず俺だ」
という確信をもって振舞う存在であることを示唆しているという。
確かにその通りだ。しかし、人間はひとりで生きているわけでは
ない。こうした考えは、必ず現実社会で挫折の憂き目に遭う。
つまり、我々のそれぞれが「俺は俺だ」という態度で、自分の欲望を
全部果たそうと思って行動すれば、必ず障害にぶちあたってそれが
できなくなる、ということだ。
これはなんとなく分かる。
第二原則の「非我」は、この社会とか、自分が生きていくにあたって
第一原則を妨害するようなもののことを言うらしい。
非我、自分以外、は確かに、自我にとってそのようなものとして表れる。
ちなみにこの段階では、この非我は邪魔者としか思えておらず、その
原因が探れていない。不満をおぼえるだけになる。
第三原則、この段階では、ようやく、その原因を自我が認識するように
なる。
「自由」というと普通、欲望のままに好き勝手振舞うことだと思い
がちである(これは第一原則の段階のこと)。しかしそんなことは
どだい無理である。では、人間に「自由」はないのか?
いや、フィヒテによれば、これは第三原則(段階)で解決されるのだ。
自我がだんだんと段階を踏みながら非我を克服して、自らを鍛えあげて
いく姿そのものが、真の自由のあり方なのである、とフィヒテは考えた。
これが、自我と非我を、すべてではないが、可能(可分的な)な部分は
調停させるという、現実的な人間のあり方から考えられたものなんだろう。
カントでは、道徳的に振舞えることが人間の「自由」なのであるとした。
しかしフィヒテはそのようには考えない。人間の本質は「欲望(自我)」
である。これと現実(非我)との調停(可分的な部分を対置する)にこそ
(おそらく)道徳的振る舞いがある(ありうる)のであり、その段階を
経ていくことこそが「自由」なのである、というわけだ。
これで、カントが別々に扱った人間の2つの本質が、繋がったことに
なる。
うーむ、ヘーゲルはもっと優れた考え方をしてたんだろうか。
これもなかなかいけてる気もする。
ちなみに昭和堂の解釈では、フィヒテは、自我の中に非我をとりこむ
ことによって、「もの自体」をしりぞけたのだ、としている。
フィヒテを読むとそういう書き方もしてあるのだろうか。
しかし上の意味もあるのであれば、これはそう重要な部分でもない
ように思う。
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