微妙に

2004年7月29日
アトピの記憶とか知識に間違いあるかも(-_-;)
まぁいいか。

ところでカントの二律背反ですけど、確かに言葉尻を
つかまえれば反論は可能なんだが、重要なところは

人間は、もの自体は認識できないから考えられない、
ただ自分の感性の形式を通って得た現象に対して、
分析判断と先天的な総合判断のみが確実な判断として
できるだけ…

そして、「もっともっと先」、「ほんとう」を希求する
人間の本性にしたがって極限を考えることも、その
範疇を出ない。

二律背反はそのたとえなんであって、重要なのはここ。
パルメニデスが一(オン)と言ってたときも、プロティノスが
一者(ト・ヘン)と言ってたときもライプニッツがモナドと
言ってたときも、ただ先天的な総合判断を、あたかも
「もの自体」、客観的実在にも当てはまるかのように錯覚
していただけ…、ということになるのだ。

これは、「概念の実体化の罠」とも言える。

べつにア・プリオリな総合判断に限らないとも思うが、人間は
(人間にとっての)事実を説明づけるために考え出した概念を、
あたかも本当の客観的実在を扱ってるかのように錯覚することが
実に多い。

哲学の世界説明の歴史は、まさにそれの連続であったと言えるし、

「アキレスと亀」をはじめとするゼノンのパラドックスも
そうなのだ。

無限に分割できると(ア・プリオリな総合判断によって)
考えられるから、事実そうであると思い込まされているに過ぎない。

実際は、アキレスは亀を軽々と追い抜く。

何かの原理をもって、世の中の全てを説明しようとする…
整合説でも対応説でも、そのようなことをしようとすれば、
どうしても二律背反に陥るはめになる。

だから、哲学は「そんなことを考える主観はどうなっているのか?」
を問う学へと変化していった。

カント以降の偉大な哲学者に、それ以前の、世界の原理から
客観的実在の変化の説明をするようなものが存在しないのは、
だからなのだと思う。

物理学のように、客観的実在の存在を前提として考えたりしない。
それは哲学的には臆見(ドクサ)であるからだ(とはいえ、
物理学はおそらくは客観的実在、その法則を正確に写し取っている)。

自分の主観を精緻に分析することのみによって、人間に普遍的な
ある原理を探り出す…こうした哲学の本当のはじまりは、やっぱり
カントにあるのだと思う。

はぁ、なんだかまた哲学話になった。それにしてもヘーゲルも
すごいんですよなかなか。

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