≪近代哲学(12)−カントについて<その5>−≫
2004年7月29日<その4からつづき>
その5、って今までで一番長いんじゃ…
2.道徳哲学の創始
これは、昭和堂のほうでは特に扱っていないところ。
たしか「定言命法」とかいう言葉は道徳的行為を
なんちゃらするって意味だったと思うし、「純粋理性批判」
と共に三大著作とされてる「実践理性批判」「判断力批判」
は、「純粋〜」が真とするなら、それぞれ善、美の話
だったと思うので、それなりに大きな業績だったとも
思うのだけど…いや、まだ分かりませんな。
ここでは道徳を扱うので、「実践理性批判」を主に扱う
ことになりますね。といっても入門書も純粋理性批判の
ところしかほとんど覚えてないので、詳しくは扱えないです
が。
まずカントは、「何が善であるか」は、とことん考えれば
必ず理性によって分かる、ということを「証明」する。
つぎに、人間はこうして獲得された「善き行為」を意志
すべきである、と主張するのだ。有名な命題、「実践理性の
根本法則」というのが、それを象徴的に示しているらしい。
「君の意志の格律(マキシム。証明の必要がない、明証的な
命題)が、つねに同時に普遍的立法の原理として妥当しうる
ように行為せよ」
「普遍的立法」って何じゃ?という感じだけど、これは、
「世の中全体の平和と調和を押し進めることになるような
行為の基準」、くらいに理解するといいようだ。
道に迷っている人がいたら、教えてあげるのが正解。
重い荷物を持って大変そうなおばあさんがいたら、
助けてあげるのが正解。
溺れている人がいたら、助けてあげるのが正解。
基準があやふやだが、考えれば確かに誰にでも分かる
とも思う。
「はじめての哲学史」では、これには時代背景があると
している。
17世紀当時、やはり宗教戦争の真っ只中。どちらもが
己の真理を主張しあって殺し合う(正確には、傭兵とか
徴兵した民に殺し合いさせてるのだろうけど)という
愚かなことをしてた。
こんな場合、世の中全体を考えれば、戦争をやめて
お互いを認め合うことが「普遍的立法」にかなって
正しい。カントは善はそうあるべきと思っていたわけだ。
確かカントは「永久平和のために」とかいう著書も
出しているし、平和主義だったっぽい。
そして、人間個人における善も、この普遍的立法に
あわせるべきだと考えたわけだ。確かにそうなれば
理想的ではある。
何が善かは、しっかり考えれば必ずわかる(普遍的立法に
合っているかどうか考えたらよい)。つぎは、この格律に
のっとる形で自分の行為を律すればよい。
これが道徳的行為の本質である、とカントは考えた。
また、道徳的行為を意志し行為することができる点が、
人間が、ほかの動物と違って「自由」な存在であることの
根拠なのだ、というのである。
人間の本質は「自由」であることだ─そしてこのことは、
人間が道徳的行為をなしうることによって「証明」される。
これがカントの哲学が出した、最終結論である、という。
これは、その時代の善の根拠であったキリスト教から
切り離された、まったく新しい「善の根拠」であった。
「何が善か」、とかいう問題はソクラテス、プラトンが
追い求めたことではあるけど、長い間哲学から忘れられて
いた。カントがもう一度復興したとも取れるだろうか。
その意味で、カントの成したもう業績としては、これも
非常に大きなものであったということができると思う。
─ただし、この善の考え方も、さきの超越論的認識論も、
以後の哲学者にとってさらに磨き上げられ、昇華していく
余地はあった。
ともあれ、カントがここで成したこの2つの業績は、
まさに「コペルニクス的転回」と自らが称したものに
ふさわしいものだったということができよう。
しかしこれも、今までの哲学史の蓄積があってこその
ものだということも忘れてはならないと思う。
さらに大事なこととして、今現代の我々がもっている
常識の一部は、じつは、こうして昔の哲学者が
知恵を振り絞って考えに考えて、ダイヤの原石を削り出した、
その宝石を身にまとっているようなものだと思う。
この輝きが生まれたときからあったように思っているが、
じつは、そんなことは人類の誰も考えていなかった
時代が、あったわけだ。
哲学史を追うというのは、そういう時代的な意味を
同時に知るということでもあると思う。
さて滅茶苦茶長くなりましたが、次はフィヒテ・シェリング
を介して、近代哲学の完成者、ヘーゲルにいきます。
その5、って今までで一番長いんじゃ…
2.道徳哲学の創始
これは、昭和堂のほうでは特に扱っていないところ。
たしか「定言命法」とかいう言葉は道徳的行為を
なんちゃらするって意味だったと思うし、「純粋理性批判」
と共に三大著作とされてる「実践理性批判」「判断力批判」
は、「純粋〜」が真とするなら、それぞれ善、美の話
だったと思うので、それなりに大きな業績だったとも
思うのだけど…いや、まだ分かりませんな。
ここでは道徳を扱うので、「実践理性批判」を主に扱う
ことになりますね。といっても入門書も純粋理性批判の
ところしかほとんど覚えてないので、詳しくは扱えないです
が。
まずカントは、「何が善であるか」は、とことん考えれば
必ず理性によって分かる、ということを「証明」する。
つぎに、人間はこうして獲得された「善き行為」を意志
すべきである、と主張するのだ。有名な命題、「実践理性の
根本法則」というのが、それを象徴的に示しているらしい。
「君の意志の格律(マキシム。証明の必要がない、明証的な
命題)が、つねに同時に普遍的立法の原理として妥当しうる
ように行為せよ」
「普遍的立法」って何じゃ?という感じだけど、これは、
「世の中全体の平和と調和を押し進めることになるような
行為の基準」、くらいに理解するといいようだ。
道に迷っている人がいたら、教えてあげるのが正解。
重い荷物を持って大変そうなおばあさんがいたら、
助けてあげるのが正解。
溺れている人がいたら、助けてあげるのが正解。
基準があやふやだが、考えれば確かに誰にでも分かる
とも思う。
「はじめての哲学史」では、これには時代背景があると
している。
17世紀当時、やはり宗教戦争の真っ只中。どちらもが
己の真理を主張しあって殺し合う(正確には、傭兵とか
徴兵した民に殺し合いさせてるのだろうけど)という
愚かなことをしてた。
こんな場合、世の中全体を考えれば、戦争をやめて
お互いを認め合うことが「普遍的立法」にかなって
正しい。カントは善はそうあるべきと思っていたわけだ。
確かカントは「永久平和のために」とかいう著書も
出しているし、平和主義だったっぽい。
そして、人間個人における善も、この普遍的立法に
あわせるべきだと考えたわけだ。確かにそうなれば
理想的ではある。
何が善かは、しっかり考えれば必ずわかる(普遍的立法に
合っているかどうか考えたらよい)。つぎは、この格律に
のっとる形で自分の行為を律すればよい。
これが道徳的行為の本質である、とカントは考えた。
また、道徳的行為を意志し行為することができる点が、
人間が、ほかの動物と違って「自由」な存在であることの
根拠なのだ、というのである。
人間の本質は「自由」であることだ─そしてこのことは、
人間が道徳的行為をなしうることによって「証明」される。
これがカントの哲学が出した、最終結論である、という。
これは、その時代の善の根拠であったキリスト教から
切り離された、まったく新しい「善の根拠」であった。
「何が善か」、とかいう問題はソクラテス、プラトンが
追い求めたことではあるけど、長い間哲学から忘れられて
いた。カントがもう一度復興したとも取れるだろうか。
その意味で、カントの成したもう業績としては、これも
非常に大きなものであったということができると思う。
─ただし、この善の考え方も、さきの超越論的認識論も、
以後の哲学者にとってさらに磨き上げられ、昇華していく
余地はあった。
ともあれ、カントがここで成したこの2つの業績は、
まさに「コペルニクス的転回」と自らが称したものに
ふさわしいものだったということができよう。
しかしこれも、今までの哲学史の蓄積があってこその
ものだということも忘れてはならないと思う。
さらに大事なこととして、今現代の我々がもっている
常識の一部は、じつは、こうして昔の哲学者が
知恵を振り絞って考えに考えて、ダイヤの原石を削り出した、
その宝石を身にまとっているようなものだと思う。
この輝きが生まれたときからあったように思っているが、
じつは、そんなことは人類の誰も考えていなかった
時代が、あったわけだ。
哲学史を追うというのは、そういう時代的な意味を
同時に知るということでもあると思う。
さて滅茶苦茶長くなりましたが、次はフィヒテ・シェリング
を介して、近代哲学の完成者、ヘーゲルにいきます。
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