<その2からつづき>

つぎ、形而上学批判にいきます。

 
カントは、主著「純粋理性批判」の(第一版の)序文でこう言う。

「人間の理性は、或る種の認識について特殊の運命を担っている、
即ち理性が斥けることもできず、さりとてまた答えることもできない
ような問題に悩まされるという運命である…」

この「問題」が何かというと、1の解説開始の冒頭で挙げた
ような形而上学的な問題だ。

「世界の果てはどうなっているか?」とかいう問題は、確かに
どの人間にとっても気になる問いだ。子供の頃なら、誰しもが
考えることだろう。

カントによれば、「もの自体」など人間には認識不可能なので
あるし、先天的総合判断の範疇におさまらないような問いは、
これは後天的総合判断なのであって不確実な答えしか得られない、
しかし、先天的総合判断において、人間は確実な共通理解を得ることが
できる。では、この先天的総合判断に照らして、世界の果てなどを
考えたらどうなるのか…?

カントにおいては「認識」は感性と悟性によっておこなわれる
働きだが、認識の次に行われる「分析判断」と「総合判断」のうち、
「総合判断」においては「理性」をはたらかせて、現象的世界を
超えて認識を拡張しようとするのである。

さきの量、質、関係、様相の4つのカテゴリーにおいて、人間は
これに無制限的なものに適用し、「もっともっと先へ」を推理に
よって考えようとする。このはたらきをカントでは理性という。
(理性をこういう意味で使うのは少し意味が狭められている
らしく、だから「純粋理性」なのだろう)

これは先天的総合判断であるから、誰にでも共通である。
だから、無制限な極限を考えようとも、確かな論理的帰結が
得られるはずである…この無制約、無制限なものをカテゴリーに
沿って理性が考え、得るもの、これを「理念」とカントはいう。
カントによれば、「理念」には、「魂」「世界」「神」がある。

 
だがここで注意してほしい。ここで人間が考えていることは、
おのれが先天的にもっている「カテゴリー」に沿って、
その極限状態を考えているにすぎない。決して「もの自体」に
ついて考えているわけでは、ない
のだ。

さらにカントによれば、こんなことを考えてしまうとき、
理性は二律背反(アンチノミー)に陥ってしまう。

二律背反とは何か?これは、相反し、矛盾する結論が、
両方とも正しいと証明されてしまうような命題のことである。

どういうことだろうか?具体的に見てみると、これは
はっきりする。

もっとも有名な「世界」について挙げよう(ってゆーか
神と魂は哲学史にないので知らない。純粋理性批判直接
読みたい…)

1.定立。世界は時間上始めをもち、空間的にも限界をもつ。
 反定立。世界は始めをもたず、空間的にも限界をもたない。

2.定立。世界におけるすべての複合された実体は
    単純な部分からなる。
 反定立。世界の内のいかなる複合的なものも単純な
    部分からなるのではない。一般に単純なものはない。

3.定立。世界の現象を律するのは自然法則的な因果性ではない。
    自由の因果性もある。
 反定立。自由は存在しない。世界における一切は自然法則に
    よって生起する。

4.定立。世界にはその部分としてまたは原因として絶対に
    必然的なものが存在する。
 反定立。世界の中にも外にも、絶対に必然的なものが世界の
    原因として存在しない。

 
ちなみにカントは、1と2についてはともに成り立たないと
しているが、3、4は片方を肯定しているらしい。
なんでも、3については、現象界には反定立が理論的関心の
もとで成り立ち、4については、定立が実践的関心のもとで
成り立つとしたとか。なんとなく分からないでもないけど、
ちょっとよく意味はわからない。

しかし、こんなもの本当に二律背反になるの?という疑問は
湧くので、2と3について、本当にそうなるのか証明して
おきます。ちなみに1も分かるけど、4はちょっとよく
わからない(というか覚えてない…)。

まず、こんな命題は実際に確かめようなどないので、
背理法(帰謬法(きびゅうほう)とも言う。ある命題が仮に
偽であると仮定すると矛盾が生じることで、その命題が真である
とする証明法)を使うしかない。

2の定立から。
「定立。世界におけるすべての複合された実体は
単純な部分からなる。」

単純な物体から成らない、としてみる。

ということは、この世のものは、単純な物体ではない、
何かいろいろの大きさをもった物体が寄り集まって
構成されていることになる。しかし、ものは大きさを
もつ限り、その半分の大きさが必ず考えられるので
あって、その何か大きさをもった物体もその半分に
分割できなければおかしい(無限の硬さをもった物体など
考えられない)。

だから、何か大きさをもった、単純ではない物体から
出来ているとは考えられない。

だから、物体は単純な物体から成っているのである。

よって、この定立は真であると証明できる。

次、2の反定立。
「反定立。世界の内のいかなる複合的なものも単純な
部分からなるのではない。一般に単純なものはない。」

単純な物体から成る、としてみる。

ということは、ものを分割していけば、そのうち
これにたどりつくことになる。
しかし見たように、ものに大きさがある限り必ず
二分割ができるはずなのであって、それこそ
ものを無限に分割しなければこれにたどり着けない。
すると無限小の物体がこの世を構成していることに
なるが、無限小がいくら集まっても大きさをもてない。

だから、単純な物体から成らない。

よって、この反定立も真であると証明できる。

 
今物理学では「プランク定数」っていう最小単位が
考えられてるようですけど、どうなんでしょうね。
理論的には、こうなるようです。

 
次、3の定立。
「定立。世界の現象を律するのは自然法則的な因果性ではない。
自由の因果性もある」

ちなみに自由とは、それ以前に何も、それ自身を規定する
原因が存在しないもののことをいう。

 
自由の因果性がない、としてみる。

この世界で起きることのすべては、必ずそれ以前の原因が
なければならない。しかし、その前の原因にも必ず
それ以前の原因が存在するのであって、以下無限に遡及できる
ことになる。そうすると、第一の原因があって何かが起こる
という、あるべき因果性の仕組みが完成しないことになる。

だから、自由の因果性がはじめに存在すると考えなければ
ならない。

よって、この定立は真であると証明できる。

次、3の反定立。
「反定立。自由は存在しない。世界における一切は自然法則に
よって生起する」

自由の因果性がある、としてみる。

仮に、自由の因果性によってこの世に何かが起きるとき、
それには何もそれ以前の原因がないものがあるということになる。

しかしこの世界の内にある限り、「何かが起こる」には必ず
それ以前の原因がなければ考えられないのであって、
そのような自由の因果性があるはずがない。

だから、自由の因果性は存在しない。

よって、この反定立も真であることが証明できる。

う、この辺が限界。その4へ。

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