≪近代哲学(12)−カントについて<その2>−≫
2004年7月29日<その1からつづき>
もうひとつ、認識能力についてカントが言っていることには、
主観は、取り外し不可能なメガネをかけているような
ものだ、という考えだ。
これはもうイギリス経験論で一部なされていたことではあるが
カントもまた、対象と認識の順序を一転させた。
対象がそうあるから、こう見えているのではなくて、
主観の側に、対象がそう見えるような仕組みが存在するのである、
と。
これを、カント自ら「コペルニクス的転回」と呼んでいる。
実はこれの基本アイデアはデカルトの時点で出ていることだが、
デカルトが「神」によって明証確実であるとした判断能力を
理性の分析のみで行ったところにカントの特長がある。
一体どういうことか?
カントによれば認識は、受動的な能力である「感性」によって
与えられる対象の直観を、能動的な能力である「悟性(感性で
得られた直観を把握する能力とか、判断する能力とかいう
意味)」が思惟することによって成り立つ。
対象に直接関係するのは直観のみで、その対象が「現象」と
言われる。
直観において、対象に「触発」されて対象の表象を受け取る
のが感性であるから、感性がなければ認識はありえない。
しかしこの感性の中に、ただ「知覚の束」を受け取るだけでは
なくて、ある先天的なものがなくてはならないとカントは
考える。
つまりは、目の前にある現象の「形式」は、「感性の形式」に
拠っている、ということだ。この「形式」は、「空間」と
「時間」である。
客観的で自明のものと思っていた、空間と時間が、実は
主観がかけている、取り外し不可能なメガネのようなもの
なのである…!この視点変更は確かに、今までなかったものだ。
(ただ相対性理論とか考え出すと、時間は客観的実在
なのでは…?と問いたくもなってこないではないが、
哲学的にはこういうことにはなると思う)
しかし確かに、空間や時間の把握は、何か経験によって
得られたものではない。言ってみれば、生まれつき主観が
もっていたものだ。
その意味で、感性の形式であるというのは適切な表現だ。
またここで、カントは「もの自体」という概念を持ち込む。
この「もの自体」は、感性が感じる表象の向こうにあって、
認識する主観とは独立に存在する「事物そのもの」のような
もの。
(現代人の感覚に即して考えれば、反射して目にあたっている
光子とか耳に届く空気の波、または手で触ったときに生じる
神経パルスが脳で処理された情報ではなくて、素粒子で構成
された「ものそれ自体」のことだ)
人間はこの「もの自体」を認識することはできない、とカントは
いう。なぜなら、人間は生まれつき持っている「感性の形式」を
通してしか、ものを見ることができないからだ。
カントは認識能力について階層的な考えをもっており、
「もの自体」を認識できるのは神だけであるという。
次に人間、次に動物、虫、細菌…と、それぞれに
主観にかかっているメガネがあるとするのである。
たしかに、色を認識しない虫だっているし、アメーバなどに
いたっては、何を認識とするのかさえわからない。
(しかし認識できないものを想定してしまうというのは、
これはロックと同じような誤りという気もする。それに
神とかいう想定は、ただの思い込みにすぎないとは言える)
また、先天的総合判断にも同じようなものが考えられると
し、12の判断表、カテゴリーをカントは想定している。
それは量、質、関係、様相、について3つずつの判断表、
カテゴリーがあって…それについては詳しくは触れません。
(というか、細かいことはよくわからない)
このカテゴリーに属する限り、それは先天的なものなので、
人間に普遍的な理解は可能ということなんでしょうか。
以上が、主客問題、普遍論争についてのカントの理解と
考えると理解しやすいと思います。
主客一致は不可能で、普遍性については、先天的なものなら
誰にでも共通だし、それは総合判断においても一部可能で、
それが万人に理解可能、というくらいの結論でしょうか。
(まぁ主客問題については、「もの自体」を想定したことで
ヒュームより後退した感も否めないですが)
その3へ。
もうひとつ、認識能力についてカントが言っていることには、
主観は、取り外し不可能なメガネをかけているような
ものだ、という考えだ。
これはもうイギリス経験論で一部なされていたことではあるが
カントもまた、対象と認識の順序を一転させた。
対象がそうあるから、こう見えているのではなくて、
主観の側に、対象がそう見えるような仕組みが存在するのである、
と。
これを、カント自ら「コペルニクス的転回」と呼んでいる。
実はこれの基本アイデアはデカルトの時点で出ていることだが、
デカルトが「神」によって明証確実であるとした判断能力を
理性の分析のみで行ったところにカントの特長がある。
一体どういうことか?
カントによれば認識は、受動的な能力である「感性」によって
与えられる対象の直観を、能動的な能力である「悟性(感性で
得られた直観を把握する能力とか、判断する能力とかいう
意味)」が思惟することによって成り立つ。
対象に直接関係するのは直観のみで、その対象が「現象」と
言われる。
直観において、対象に「触発」されて対象の表象を受け取る
のが感性であるから、感性がなければ認識はありえない。
しかしこの感性の中に、ただ「知覚の束」を受け取るだけでは
なくて、ある先天的なものがなくてはならないとカントは
考える。
つまりは、目の前にある現象の「形式」は、「感性の形式」に
拠っている、ということだ。この「形式」は、「空間」と
「時間」である。
客観的で自明のものと思っていた、空間と時間が、実は
主観がかけている、取り外し不可能なメガネのようなもの
なのである…!この視点変更は確かに、今までなかったものだ。
(ただ相対性理論とか考え出すと、時間は客観的実在
なのでは…?と問いたくもなってこないではないが、
哲学的にはこういうことにはなると思う)
しかし確かに、空間や時間の把握は、何か経験によって
得られたものではない。言ってみれば、生まれつき主観が
もっていたものだ。
その意味で、感性の形式であるというのは適切な表現だ。
またここで、カントは「もの自体」という概念を持ち込む。
この「もの自体」は、感性が感じる表象の向こうにあって、
認識する主観とは独立に存在する「事物そのもの」のような
もの。
(現代人の感覚に即して考えれば、反射して目にあたっている
光子とか耳に届く空気の波、または手で触ったときに生じる
神経パルスが脳で処理された情報ではなくて、素粒子で構成
された「ものそれ自体」のことだ)
人間はこの「もの自体」を認識することはできない、とカントは
いう。なぜなら、人間は生まれつき持っている「感性の形式」を
通してしか、ものを見ることができないからだ。
カントは認識能力について階層的な考えをもっており、
「もの自体」を認識できるのは神だけであるという。
次に人間、次に動物、虫、細菌…と、それぞれに
主観にかかっているメガネがあるとするのである。
たしかに、色を認識しない虫だっているし、アメーバなどに
いたっては、何を認識とするのかさえわからない。
(しかし認識できないものを想定してしまうというのは、
これはロックと同じような誤りという気もする。それに
神とかいう想定は、ただの思い込みにすぎないとは言える)
また、先天的総合判断にも同じようなものが考えられると
し、12の判断表、カテゴリーをカントは想定している。
それは量、質、関係、様相、について3つずつの判断表、
カテゴリーがあって…それについては詳しくは触れません。
(というか、細かいことはよくわからない)
このカテゴリーに属する限り、それは先天的なものなので、
人間に普遍的な理解は可能ということなんでしょうか。
以上が、主客問題、普遍論争についてのカントの理解と
考えると理解しやすいと思います。
主客一致は不可能で、普遍性については、先天的なものなら
誰にでも共通だし、それは総合判断においても一部可能で、
それが万人に理解可能、というくらいの結論でしょうか。
(まぁ主客問題については、「もの自体」を想定したことで
ヒュームより後退した感も否めないですが)
その3へ。
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