≪近代哲学(12)−カントについて<その1>−≫
2004年7月28日イマヌエル・カント(1724〜1804)、ドイツのケーニヒスベルクに
生まれた。近代哲学はデカルトに始まりヘーゲルで完成を見たと
言われているけど、このカントはちょうどその真ん中に位置して、
この2人とともに3つの大きな峰を成しているという。
これまでの哲学は大陸合理論・イギリス経験論の2つに分かれて
いたけど、カントで統合されて、呼び名がかわります。
この後につづく哲学者、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルどれもが
ドイツ出身だからなのか、彼らの哲学は「ドイツ観念論」と分類される。
ニーチェ、フッサール、ハイデガー、ショーペンハウアー、ハンナ・
アレントとかもドイツ出身。著名な哲学者を多く輩出している国ですね。
時間に超几帳面で、毎日決まった時間に近所を散歩して思案していたが、
あまりにその時間が正確なので、近所の人はカントが道を通るのを見て
時計を合わせたという逸話は有名なエピソード。ただルソーの「エミール」
を読んだ時だけは、それが狂ったとか。
あと、カントは80まで生きたが、終生ケーニヒスベルクから出たことが
無かったという、これもほんとかウソか分からない話もある。
では、カントの具体的な思想にはいりましょう。
ちなみにカントは最初大陸合理論の考えを正しいと思っていたが、
ヒュームの哲学を知って衝撃を受けたのだという。そこから、
このふたつの統合が始まったのだろう。
カントは自分の哲学を「コペルニクス的転回」と呼んでいたという。
それまでの哲学を覆すような仕事をしたと自分で言っているわけだから
すごい自信だけど、内容は実にその言葉にあたうものだとは思える。
「はじめての哲学史」によれば、カントが行った仕事は次の2つ。
1.理性批判(=哲学批判)
2.道徳哲学の創始
カントは「もの自体」っていうアイデアが一番有名かもしれない。
この「もの自体」は、1に使われているアイデア。
ただ昭和堂のほうでは、このアイデアは、カントの哲学を覆しかねない
ものだとしている。
確かに、ロックと同じように不徹底な気もしないでもないアイデアでは
ある。
1.理性批判
これはカントの頃まで連綿と続いていた、哲学のテーマへの批判。
ひとつには、人間は客観を認識できるのか、という主客問題。
また、人間に普遍的な理解が可能なのはなぜか、という普遍論争。
それともうひとつは、形而上学の問題。
形而上学的というのは…なんか色々意味があって分かりづらい
のだけど、メタ(超えて)フィジックス(自然科学、物理学)と
言われるだけあって、自然科学では扱えないほど範囲の広い
概念について扱う学、らしいです。浅学者にはこの辺が限界説明。
たとえば、スコラ学の「神は存在するか?」という問いとか、
ギリシャ哲学の昔から想定してきた「物質の最小単位」の問い、
または「世界の始まりはどうなっていたのか?」「世界の果ては
どうなっているのか?」等々…
これらを、概念で考えるだけで規定してしまったスピノザ・
ライプニッツやそれ以前の先人たちの考えも、形而上学的なんで
しょうか。物質の根源を構想したわけだから。
主にこの3つの問題を、人間の認識能力と「もの自体」の考え方で解決
したのがカントである。特に、人間の認識能力に関する批判は
カントでひとまず完成したといっていいと思う…と思う。
(だんだん難しくなってきてもうずっと自信ナシ)
とりあえずは、ヒュームで残った問題、人間は先験的な認識能力を
持っているのか?について。同時に普遍論争も片付けましょう。
知覚の束であるのはいいのだが、ただ知覚するだけでは、
それが認識になることはないのではないか…これに対して、
カントは、人間は先天的な認識能力以前の、超越論的な(先験的
な。認識それそのものが、なぜ可能になっているか、どのような
仕組みなのかを問うときに使う語。認識についてのメタ認識)
ものがあるとして論をすすめていく。
超越論的哲学として、カントは「分析判断」と「総合判断」を
挙げる(ライプニッツのところで挙げた「分析的命題」と
「総合的命題」から取ってるアイデアですな)。前者は、
述語が主語の内にすでに含まれている判断のことで、
総合判断は、主語に含まれていない述語をつけ加えることに
よってつくられる判断である。
なんのことやら?という感じなので、調べてみた。
例えば、この「この玉は、丸い」という場合、玉は丸いに決まって
いるので、玉という語を分析すれば「丸い」は出てくる。
これはなんら知識の拡張をもたらすものではないが、しかし
確実な判断である。これが、分析的判断であり、また、分析的判断
は、「先天的(ア・プリオリ)」である。ア・プリオリというのは
「経験に先立って」という意味。生まれ持った判断能力のみで
判断可能な命題ということだろうか。
つぎ、「この玉は、重い」という場合。この場合、「玉」という
語をいくら分析しても「重い」は取り出せない。しかし目の前に
ある玉は重いとすれば、これは重いとは判断できる。
しかしながら、これは玉を持ってみないと(経験を得ないと)
わからないし、いつでも誰にでも重いかどうかは分からない。
このような判断を、総合判断という。
総合判断は基本的に「後天的(ア・ポステリオリ)」である。
これは、経験の蓄積による判断ということができる。
ちなみに総合判断は経験による判断なのであるから、これは
不確実で普遍性を持てない(後天的だから不確実)。
対して分析判断は、確実だがただの同語反復になっていると
する(先天的だから誰にでも同じ)。
だがカントによれば、先天的な(ア・プリオリな)総合判断、
というものが可能であるという。これはどういうものかという
と、数学や幾何学と、それを用いた自然科学の判断である。
これは主語をいくら分析しても述語が出てこないのに正しい
判断のことで、先天的な総合判断とされる。これが、実は
人間に普遍的な理解が可能な理由である。
例えば「2+3=5」。これは、2にも3にも+にも5は
含まれていないのに、それらの概念をあわせて思惟することで
「5」という間違いない判断が下される。
総合判断なのに、先天的な判断であるから、誰にでも共通なのだ。
とりあえずこうして、知覚の束がどう処理されるかのガイドラインが
できたと思う。
分析判断は、確かなもので全員に共通。
しかし総合判断は、経験によるもので、これが習慣とか蓋然性で
各人バラバラ。ただ共同体によって共通なものとかがあったりする。
もうひとつ、全員に共通な総合判断というのがあって、これが
ア・プリオリな総合判断である。
分析判断とこれについては、普遍的理解が可能、ということ
だと思う。
その2につづく。
生まれた。近代哲学はデカルトに始まりヘーゲルで完成を見たと
言われているけど、このカントはちょうどその真ん中に位置して、
この2人とともに3つの大きな峰を成しているという。
これまでの哲学は大陸合理論・イギリス経験論の2つに分かれて
いたけど、カントで統合されて、呼び名がかわります。
この後につづく哲学者、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルどれもが
ドイツ出身だからなのか、彼らの哲学は「ドイツ観念論」と分類される。
ニーチェ、フッサール、ハイデガー、ショーペンハウアー、ハンナ・
アレントとかもドイツ出身。著名な哲学者を多く輩出している国ですね。
時間に超几帳面で、毎日決まった時間に近所を散歩して思案していたが、
あまりにその時間が正確なので、近所の人はカントが道を通るのを見て
時計を合わせたという逸話は有名なエピソード。ただルソーの「エミール」
を読んだ時だけは、それが狂ったとか。
あと、カントは80まで生きたが、終生ケーニヒスベルクから出たことが
無かったという、これもほんとかウソか分からない話もある。
では、カントの具体的な思想にはいりましょう。
ちなみにカントは最初大陸合理論の考えを正しいと思っていたが、
ヒュームの哲学を知って衝撃を受けたのだという。そこから、
このふたつの統合が始まったのだろう。
カントは自分の哲学を「コペルニクス的転回」と呼んでいたという。
それまでの哲学を覆すような仕事をしたと自分で言っているわけだから
すごい自信だけど、内容は実にその言葉にあたうものだとは思える。
「はじめての哲学史」によれば、カントが行った仕事は次の2つ。
1.理性批判(=哲学批判)
2.道徳哲学の創始
カントは「もの自体」っていうアイデアが一番有名かもしれない。
この「もの自体」は、1に使われているアイデア。
ただ昭和堂のほうでは、このアイデアは、カントの哲学を覆しかねない
ものだとしている。
確かに、ロックと同じように不徹底な気もしないでもないアイデアでは
ある。
1.理性批判
これはカントの頃まで連綿と続いていた、哲学のテーマへの批判。
ひとつには、人間は客観を認識できるのか、という主客問題。
また、人間に普遍的な理解が可能なのはなぜか、という普遍論争。
それともうひとつは、形而上学の問題。
形而上学的というのは…なんか色々意味があって分かりづらい
のだけど、メタ(超えて)フィジックス(自然科学、物理学)と
言われるだけあって、自然科学では扱えないほど範囲の広い
概念について扱う学、らしいです。浅学者にはこの辺が限界説明。
たとえば、スコラ学の「神は存在するか?」という問いとか、
ギリシャ哲学の昔から想定してきた「物質の最小単位」の問い、
または「世界の始まりはどうなっていたのか?」「世界の果ては
どうなっているのか?」等々…
これらを、概念で考えるだけで規定してしまったスピノザ・
ライプニッツやそれ以前の先人たちの考えも、形而上学的なんで
しょうか。物質の根源を構想したわけだから。
主にこの3つの問題を、人間の認識能力と「もの自体」の考え方で解決
したのがカントである。特に、人間の認識能力に関する批判は
カントでひとまず完成したといっていいと思う…と思う。
(だんだん難しくなってきてもうずっと自信ナシ)
とりあえずは、ヒュームで残った問題、人間は先験的な認識能力を
持っているのか?について。同時に普遍論争も片付けましょう。
知覚の束であるのはいいのだが、ただ知覚するだけでは、
それが認識になることはないのではないか…これに対して、
カントは、人間は先天的な認識能力以前の、超越論的な(先験的
な。認識それそのものが、なぜ可能になっているか、どのような
仕組みなのかを問うときに使う語。認識についてのメタ認識)
ものがあるとして論をすすめていく。
超越論的哲学として、カントは「分析判断」と「総合判断」を
挙げる(ライプニッツのところで挙げた「分析的命題」と
「総合的命題」から取ってるアイデアですな)。前者は、
述語が主語の内にすでに含まれている判断のことで、
総合判断は、主語に含まれていない述語をつけ加えることに
よってつくられる判断である。
なんのことやら?という感じなので、調べてみた。
例えば、この「この玉は、丸い」という場合、玉は丸いに決まって
いるので、玉という語を分析すれば「丸い」は出てくる。
これはなんら知識の拡張をもたらすものではないが、しかし
確実な判断である。これが、分析的判断であり、また、分析的判断
は、「先天的(ア・プリオリ)」である。ア・プリオリというのは
「経験に先立って」という意味。生まれ持った判断能力のみで
判断可能な命題ということだろうか。
つぎ、「この玉は、重い」という場合。この場合、「玉」という
語をいくら分析しても「重い」は取り出せない。しかし目の前に
ある玉は重いとすれば、これは重いとは判断できる。
しかしながら、これは玉を持ってみないと(経験を得ないと)
わからないし、いつでも誰にでも重いかどうかは分からない。
このような判断を、総合判断という。
総合判断は基本的に「後天的(ア・ポステリオリ)」である。
これは、経験の蓄積による判断ということができる。
ちなみに総合判断は経験による判断なのであるから、これは
不確実で普遍性を持てない(後天的だから不確実)。
対して分析判断は、確実だがただの同語反復になっていると
する(先天的だから誰にでも同じ)。
だがカントによれば、先天的な(ア・プリオリな)総合判断、
というものが可能であるという。これはどういうものかという
と、数学や幾何学と、それを用いた自然科学の判断である。
これは主語をいくら分析しても述語が出てこないのに正しい
判断のことで、先天的な総合判断とされる。これが、実は
人間に普遍的な理解が可能な理由である。
例えば「2+3=5」。これは、2にも3にも+にも5は
含まれていないのに、それらの概念をあわせて思惟することで
「5」という間違いない判断が下される。
総合判断なのに、先天的な判断であるから、誰にでも共通なのだ。
とりあえずこうして、知覚の束がどう処理されるかのガイドラインが
できたと思う。
分析判断は、確かなもので全員に共通。
しかし総合判断は、経験によるもので、これが習慣とか蓋然性で
各人バラバラ。ただ共同体によって共通なものとかがあったりする。
もうひとつ、全員に共通な総合判断というのがあって、これが
ア・プリオリな総合判断である。
分析判断とこれについては、普遍的理解が可能、ということ
だと思う。
その2につづく。
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