「大きな物語」

2004年12月25日
哲学に関する本は、ただ読み返すだけで「あ、そういうことか」と
改めて気付かされることがある。本当不思議なんだけど、ちゃんと
文章を読んで、書いてある内容を理解して読み進めても、
他の本をいくつか読んだ後に読みなおすと、改めてその意味が
しっかり飲み込めてくるのに驚く。

。。ってなんか、読書家の小学生が感じていそうなことに
いまさら驚いてる俺ですけども。。。。。。。

「大きな物語」という話が少し自分の体験にしっくりきたので
そのことについて書いてみたいと思います。

(文章が相変わらず卑近で、哲学のこと書いてる気がしないのだけど)

ヘーゲルの言う「不幸の意識」、に対して竹田さんは「大きな
物語」という名前を確かつけていたけれど、これには社会全体の
進みゆきと、個人の成長段階の途中みたいな、二重の意味があった。
(社会の「大きな物語」はアレ、マルクス主義とかキリスト教
みたいなやつのこと)

人間て、自分のことをよく説明してくれる理論に出会うと少し
嬉しくなる。これも「大きな物語」に自分を一体化していることと
少し似ているかもしれない、と思いつつ…この理論というのは、
要するに自分にとっての「自己の理想像」をどう描くか、みたいな
感じに似てる。

いつも恥を晒しつつ日記を書いているけれど、ここでまた恥を
晒せば、今まで俺が身を置いていた「大きな物語」は二つあった。

一つは、「物事をよく考え、偏見をぬぐった視点を持つことで
大衆、凡人とは違う「知」を得る」という物語。

二つ目は、「うまい絵を描けるようになる」という物語。

いずれも、それぞれの物語での理想像を描けば、「(色々な書を
読むのではなく)自らの知能をもって、色々なものを相対化して
考えることによって、誰にも負けない「知」を持った人間」、
「なんでもうまく絵に描ける人間」といったところかもしれない。

そういう風にしっかり自分の中で明文化出来ていると、不思議と
これ以外の「物語」があまり目に入らなくなってくる。

心の中で、「しかし物事をしっかり考えているからいい」とか
「うまい絵が描けるようになれば、他の全てのことで劣っていても
いい」なんて、まるでキリストに全てを捧げる信者のような
心地にまでなっていた。自分の「生」の目的はそういう「知」を
得る姿勢を堅持していることと、死ぬまでに自分が満足いくほど
「うまい絵」を描くことだった。それ以外の価値と引き換えに
しても、構わないと思っていた(しかし、宗教的といえるほど
強く思い込んでいたわけではなかったけれど。現に今は、
そうは思っていない)。

この話だけ聞くと、少しおばかでヲタクな子のように見えるの
だけれど、これをキリスト教の敬虔な信者に置き換えたらどうだろう。
「現世の価値などに興味はない。私の生はただ神への信仰の
ためにこそある」と言っていても、俺にはそうは思えないな
とは思えど、不思議には思わないと思う。

俺の卑近な話と比べるのは少し違和感あるけど、結局は
「大きな物語」というのは、そういうものなんじゃないか。
今日、超ひまな警備の仕事をしながら悶々と考えていた。

要するに、「今自分はなんのために生きているか」に対する
「理由付け」と「目標」の設定が、物語のかたちを取る、と
いうこと。不思議だけれど、そう考えると凄くしっくりくる。

一時なんか、俺は絵を描くために生まれてきたのだし、だから
それが達成できれば満足だ、なんて考えていたこともある。
恥ずかしながら、でもしかし、そういう「物語」を勝手に
作り出してそれと同一化していたのだ、と考えるとすごい
納得がいく。

世の中には、何を考えてるのかよく分からない人がいる。
でも、この考え方を知ってからは、なぜそうなるのか
分かる気がしてきた。今の俺が昔の俺を見れば、「絵が描ければ
満足」みたいに思っていた俺を見て、「何考えてるんだ
この人?」と思ったかもしれない。

人はそれぞれの「価値体系」を、「物語」を持っていて、
「生の理由」や「目的」や「理想像」や、逆に「こうはなりたく
ない」という像を持っている。それは外界からの情報などで
いかようにも変わりうるだろうけれど、当面は「生」の「理由」
であり「目標」であって彼の大事なものだ。
彼の「物語」はなんなんだろう?これからはなんとなく、
そういうことに興味をもって人を見られる気がする。

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