≪現代思想(11)−現代思想のその後<その2>−≫
2004年12月25日<その1からつづき>
・テオドール・アドルノ(1903〜1969)
・マックス・ホルクハイマー(1895〜1973)
このアドルノとホルクハイマーは、フランクフルト大学の
社会科学研究所に集まっていたので「フランクフルト学派」と
呼ばれる。次に扱う、弟子のユルゲン・ハーバーマスも
同じ学派に分類される。ベンヤミンもこの学派だとか。
この二人はどちらもユダヤ人。だからというわけではないだろう
けど、当時最も問題視されていた思想的問題、ナチスはじめ
全体主義を生んでしまった根本の原因を暴き出し、批判しようと
する。そこで書かれたこの二人の共著が「啓蒙の弁証法」。
二人は、そもそも「啓蒙的理性」から野蛮と暴力が生まれたという。
といっても、いきなり「啓蒙的理性」と言われてもパンピー以下の
俺には「何それ?」となってしまうので、調べてみた。
「啓蒙」というのは、「人々に新しい知識を与え、教え導くこと」。
特に「啓蒙思想」という場合、18世紀フランスを中心として
ヨーロッパ全域に広がった革新的思想で、それまで支配的だった
キリスト教のくびきから解き放たれた「理性」の使用を大衆に
促して、人類の普遍的な進化をうながそうとした思想。だそうだ。
つまり簡単に言うと、「キリスト教の言ってることはほとんど
嘘でした!これからは科学とか、自分らで考えて人類を発展させて
いこう」と皆に言ったということ。まぁ、それだけキリスト教という
のは、影響が絶大的だったということですな。
これが何か悪いのだろうか?と素朴に考えると思ってしまうところ
だが、もう少し追うと。
アドルノ、ホルクハイマーいわく、理性による「啓蒙」の過程は
一見野蛮から文明への進歩であるかのように見える。
理性は確かに、本来人間にとって恐るべき自然を理解することに
より、ある程度コントロールすることを可能とし、それと同時に、
自分自身のなかのさまざまな衝動、欲求、また自然と溶け合うような
共感までもコントロールすることによって、(ここがなぜだかよく
分からないが)「同一な自我」とか「主体性」を確立してきた。
つまり、外的自然だけではなく、人間の内部にある内的自然(なぜ
自然という言葉を使うのかよく分からないが、欲望などを指す
からだろうか)にまで理性による支配が進行していったことを意味する、
のだそうだ。
理性は自然を支配するための「道具的理性」となって生産力(?)を
高めていくが、しかし外的自然からも内的自然からも切り離された
人間の「自我」はどうなるか。
つまり、外側も内側も、理性によって理解されて道具化されてきたら
どうなるか。飲み込みにくいが、つまり世界全体が、理性によって
捉えられる、無機質な総体みたいなものだと理解されてしまうと
果たして自分の「自我」って何なんだ?と思ってしまう、ということ
だと思う。
で、そうなると自我はどうなるかというと、ただただ「自己保存の
ための自己保存」を望むようになる、のだという。
これは、哲学的には非常に分かる気がする事態だ。詳しくは言えない
が、キリスト教などの「大きな物語」を消失し、人間がそういう
「生の目標」のような「究極の理想」を完全に見失う事態に陥ると、
人々がただただ目の前の欲望のみを目的に生きるようになる、
という結果が訪れる。この考察は当たっていると思う。要するに、
ニーチェの言う「ニヒリズム」が到来した世界、みたいなもの。
少し話がずれたが、こうして内的自然が退化し抑圧されてくると、
そこからきわめて愚劣な蛮行(ナチズム)が生まれてくるのだそうだ。
ということで、自然、彼らは「同一性」や「理性」に対して徹底的な
懐疑の視線を向けるようになる。また思想的に、「内的自然」で少し
うかがえたが、シェリングのような「人間は自然に還るべき」のような
ドイツのロマン主義的性格も持っているという。
この仕組みを暴いただけで考察が終わっているのか、ではどうすれば
いいかということは哲学史からは読み取れない。
次はまだ健在のハーバーマスおじさん。
・テオドール・アドルノ(1903〜1969)
・マックス・ホルクハイマー(1895〜1973)
このアドルノとホルクハイマーは、フランクフルト大学の
社会科学研究所に集まっていたので「フランクフルト学派」と
呼ばれる。次に扱う、弟子のユルゲン・ハーバーマスも
同じ学派に分類される。ベンヤミンもこの学派だとか。
この二人はどちらもユダヤ人。だからというわけではないだろう
けど、当時最も問題視されていた思想的問題、ナチスはじめ
全体主義を生んでしまった根本の原因を暴き出し、批判しようと
する。そこで書かれたこの二人の共著が「啓蒙の弁証法」。
二人は、そもそも「啓蒙的理性」から野蛮と暴力が生まれたという。
といっても、いきなり「啓蒙的理性」と言われてもパンピー以下の
俺には「何それ?」となってしまうので、調べてみた。
「啓蒙」というのは、「人々に新しい知識を与え、教え導くこと」。
特に「啓蒙思想」という場合、18世紀フランスを中心として
ヨーロッパ全域に広がった革新的思想で、それまで支配的だった
キリスト教のくびきから解き放たれた「理性」の使用を大衆に
促して、人類の普遍的な進化をうながそうとした思想。だそうだ。
つまり簡単に言うと、「キリスト教の言ってることはほとんど
嘘でした!これからは科学とか、自分らで考えて人類を発展させて
いこう」と皆に言ったということ。まぁ、それだけキリスト教という
のは、影響が絶大的だったということですな。
これが何か悪いのだろうか?と素朴に考えると思ってしまうところ
だが、もう少し追うと。
アドルノ、ホルクハイマーいわく、理性による「啓蒙」の過程は
一見野蛮から文明への進歩であるかのように見える。
理性は確かに、本来人間にとって恐るべき自然を理解することに
より、ある程度コントロールすることを可能とし、それと同時に、
自分自身のなかのさまざまな衝動、欲求、また自然と溶け合うような
共感までもコントロールすることによって、(ここがなぜだかよく
分からないが)「同一な自我」とか「主体性」を確立してきた。
つまり、外的自然だけではなく、人間の内部にある内的自然(なぜ
自然という言葉を使うのかよく分からないが、欲望などを指す
からだろうか)にまで理性による支配が進行していったことを意味する、
のだそうだ。
理性は自然を支配するための「道具的理性」となって生産力(?)を
高めていくが、しかし外的自然からも内的自然からも切り離された
人間の「自我」はどうなるか。
つまり、外側も内側も、理性によって理解されて道具化されてきたら
どうなるか。飲み込みにくいが、つまり世界全体が、理性によって
捉えられる、無機質な総体みたいなものだと理解されてしまうと
果たして自分の「自我」って何なんだ?と思ってしまう、ということ
だと思う。
で、そうなると自我はどうなるかというと、ただただ「自己保存の
ための自己保存」を望むようになる、のだという。
これは、哲学的には非常に分かる気がする事態だ。詳しくは言えない
が、キリスト教などの「大きな物語」を消失し、人間がそういう
「生の目標」のような「究極の理想」を完全に見失う事態に陥ると、
人々がただただ目の前の欲望のみを目的に生きるようになる、
という結果が訪れる。この考察は当たっていると思う。要するに、
ニーチェの言う「ニヒリズム」が到来した世界、みたいなもの。
少し話がずれたが、こうして内的自然が退化し抑圧されてくると、
そこからきわめて愚劣な蛮行(ナチズム)が生まれてくるのだそうだ。
ということで、自然、彼らは「同一性」や「理性」に対して徹底的な
懐疑の視線を向けるようになる。また思想的に、「内的自然」で少し
うかがえたが、シェリングのような「人間は自然に還るべき」のような
ドイツのロマン主義的性格も持っているという。
この仕組みを暴いただけで考察が終わっているのか、ではどうすれば
いいかということは哲学史からは読み取れない。
次はまだ健在のハーバーマスおじさん。
コメント