本当久方ぶりの哲学話。。。。。早く就職したいなァ。。。

。。さて、哲学史も最後です。一人ずつ、大まかな概説を
書いていこうと思います。というのも、昭和堂にも、
はじめての哲学史にも、それ以上のことは書いてないからでも
あります。

・ハンナ・アレント(ハナー・アーレントって書き方してる
場合もあったり。個人的にはハンナ一択)
・テオドール・アドルノ
・マックス・ホルクハイマー
・ユルゲン・ハーバーマス
・ジャン・フランソワ・リオタール
・ジョン・ロールズ
・ロバート・ノージック
・アラスデア・マッキンタイア

この順に、まとめていきます。

 
まず、現代思想の課題の整理からしてみると。

今までの哲学史でも何度か扱ったことだけれども、この頃の
思想界の課題は、全体主義とファシズム、そしてそれに繋がる
(と目された)ロゴス中心主義、に対する懐疑にその端を発していた。

多くの人間が信じて疑わなかった、理性による社会制度、科学の
発展による平和が、がらがらと崩れ去った後の時代。どうしても
この点が思想家たちの思索の対象だっただろうと思う。

 
・ハンナ・アレント(1906〜1975)

ヤスパース、ハイデガーの教えを受けた(ハイデガーとは一時
愛人関係だったとか…)女性の哲学者。ユダヤ人で、二次大戦中
アメリカに亡命したりしている(と、なると、ナチに加担した
ハイデガーに対しては複雑だろうなあ…と自然と思う…)。

自然、彼女の関心はファシズム批判に向く。彼女は、ファシズムの
ような全体主義は、近代において「公的領域」が没落したことから
生み出されたと考える。

アレントで割と有名なのが、この公的領域を「一台のテーブル」に
例えるところ。実際に自分がテーブルを囲んで座っているところを
想像すると分かりやすいが、テーブルを囲んで座っているからこそ、
座っているべき場所がよく自覚でき、各人との距離がつかみやすい。
各人との結びつきと距離を確保し、一人が他者に話しかけ、他者が
それをしっかり受け止めてもらうことができるような空間、
これをテーブルに例えたわけである。

アレントによれば、古代ギリシャのポリスでは、このテーブルが
しっかり据えられていた。公的領域が各人によく自覚でき、人と
人が国や世界のことを語り合え、人は世界と自分自身のリアリティを
実感することができたわけである。

しかし、近代においてそのテーブル、「公的領域」がその役割を
成さなくなってから、人と人とのコミュニケーションの役割が
軽視されるようになってしまい、生命の維持と拡充のために
消費財を生産するという「労働」にのみ重きが置かれるように
なってきた(というのはおそらく、資本主義の非をとがめる
ニュアンスがあるのだろうけど。なぜこのようなことが起きたか
といえば、やはり資本主義の影響だろう)。

その「労働」を基礎とする近代社会は、「予測可能性・計算可能性」
という一つの見方によって成り立つ画一的な社会であり、
コミュニケーションなき「労働」を通してしか世界と関われない個人、
世界とのつながりを実感できなくなった「個人」は、自らの内的、
個的な世界へと退却せざるを得ず、そこに権力が「全体主義」として
登場する可能性がはらまれてしまう、とアレントは言う。
こう聞くと、なるほどその通りかもしれない、とうなずける。

現代社会がコミュニケーションなき労働を中心的価値としてしまって
いることを批判し、政治と芸術を、生き生きとしたコミュニケーション
の空間としてよみがえらせることをアレントは願った。

う〜ん、久しぶりなのに薄い内容だ…

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