<その1からつづき>

「存在とは何か?」この問いを向けるべき相手は、
ほかならぬ、その「存在」を無自覚的にではあるが
つかんでいる人間自身だということが明らかになった。

「存在と時間」では、この存在とは何か、の問いを
向けるべき人間そのもののことを、<にそこで
漠然とではあれ存在が開示されているような
存在者>、という意味合いを込めて現存在、という。

現存在という場合、これは人間のことを指すと考えると
わかりやすい。

ハイデガーの哲学で重要な概念はさきの「現存在」と
「頽落」、この二つ。「頽落」も後で出てくる
「時間性」ほかのキーワードも、もつまるところ、
現存在の存在仕方のことだと思う。「頽落」を別扱いした
のは、これが前-後期を繋ぐ(らしい)重要なキーワード
だから。

「存在とは何か?」は、この現存在の分析によって
次第に明らかになっていきます。

とはいえ「存在と時間」は未完なので、実は「存在一般」に
ついては扱われないまま終わってるみたいなんですが…

 
前期を「世界内存在」、「気遣い」、「頽落」、「先駆」、
「時間性」、と昭和堂からキーワードごとに
分けて説明した後、後期の思想を簡単に解説してから、
はじめての哲学史の解釈にいきます。

それぞれの概念はすべて「現存在」のあり方の説明という
感じなので、はしばしで現存在のあり方と絡んできます。

 
・まず「世界内存在」から。

これは言葉でもう想像できるとおり、現存在が認識している
「世界」とはどういうものか、を説明する概念。

まずビッグバンがおきてできた宇宙のなかで、太陽系が
でき、地球ができ、生命が偶然生まれ、その中で生まれた
人間という種のうちのひとつ、素粒子で構成された思惟する
物体…つまり、客観的事物で構成された「世界」があって
その中に「現存在」が存在している、というのは、
これは間違い(というより、人がもつ世界像についての確信
の、一般的なものに過ぎない)。

それでは、デカルト的コギトが存在していて、その思惟する
実体から捉えられているのが世界であるか、というと
これも正確ではない。

そうではなくて、現存在の世界の了解の仕方、<そのつど
自らの可能性において、この可能性に基づき、自らを了解
しつつ存在していかざるを得ないような存在者>─つまり
「実存」としての現存在のあり方を元にして、その
実存する現存在のもつ根本的な認識構造、それに捉えられる
ものが「世界」であり、現存在はその世界の内の存在であると
される。

これだと言い方が難しい。もっとわかりやすくすると、
人間は生きている限りで、自分だけがもつ固有の「生の世界」
をもっていて、その中で生きている、ということ。

無機質で数学的な「世界」の中にぽつんと存在しているという
形ではなく、また「思惟」を客観的世界からぷつりと
切り離して、そこから、まるで神の視点から覗くように
世界を認識するのでもない。

あくまで、生きている私の「今」この「視点」から見られた
世界から考える
、客観的世界をあらかじめ想定してその中に
いると考えると、どうしてもその視点から存在を考察できない
のである。ハイデガーの言いたいことはつまりこういうこと
だと思う。現象学の方法だと考えるとうなずける。

ここまでは、現象学的還元と本質直観のたまものといえなく
ない。フッサールよりハイデガーが一歩進んだのはここから。

その3へ。

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