マルティン・ハイデガー(1889〜1976)。ハイデッガー、とも
呼ばれます。ハイデガーのほうが割と主流かな。

いちおう現象学という区分にしておきますが、この人は
実存主義を少し推し進めたのが功績だったとか。ただ本人は
自分の哲学を実存主義ではないと否定してたそうです。

はじめての哲学史によれば、ハイデガー以後、現象学、
実存主義には目立った進歩が見られない、そうだから…
仮に竹田さんの「エロスの現象学」がもう少し進んでいる
としても、これがほぼ、今の哲学の(現象学の)最先端の
哲学かもしれない。もちろん、他に学派もあるんですが。

さてハイデガーというと、知る人ぞ知る、あのナチスへの
加担が噂される人物で、ファリアスという人の本によれば
かなりナチスを擁護する演説もしているし、加担率は高かった
とか。

当然だが、ナチスに加担していたから哲学としては問題外、
というのは哲学徒としては誠実な態度とは言えない。
もちろん、自分で読んでみてじかに判断すべきだと思う。
これとハイデガーの前期・後期の思想の変貌とあわせて
何かと問題の多い思想家であるが、このハイデガーにおいて
現象学に進展があったことも確かである、らしい。

それではまず昭和堂からの紹介から、はじめての哲学史の
解釈にいきます。

まずハイデガーは、生まれもドイツ、活躍したのもドイツ。
カトリックの家に生まれた。このカトリック生まれ
というのも彼の思想に重要な影響を与えているらしいが
具体的にどんな風にかはわからない。
最初はフライブルグ大学って大学の神学部に入ったけども、
フッサールと同じく、ブレンターノに影響されて哲学に入り、
新カント派のリッケルトという人に最初は師事していたけども、
その人が辞めて代わりにフッサールが来てからはフッサールと
交友を深め、現象学の後継者と目されるが、次第にハイデガーは
独自の哲学を打ち出していく。

ハイデガーの思想には前期・後期があって、内容がずいぶん
変わっているという。そこで前期から後期の思想の転換を
「転回(ケーレ)」と呼んでよく問題にされる。

前期の主著は「存在と時間」。これは未完で終わっている。

後期は「ヒューマニズムについて」とか「ニーチェ」など
いろいろな著作があるが、総じて文章が難解をきわめて
おり、解釈も多様。もちろん前期の本も簡単ではないと
思う。

竹田さんによるハイデガー入門も読了したが、竹田さんに
よれば、ハイデガーの白眉は前期「存在の時間」にあって
後期にたいした成果は見られない、そうだ。
問題は「頽落(たいらく?)」と呼ばれるハイデガー独自の
概念で、これがケーレにおいても重要な意味をもっている、
という。

ともあれ、とりあえずは概略をみていきましょう。

・前期

まず前期から。主著「存在と時間」を扱うことになるが、
これは書名の通り、「存在」を扱う本だ。時間ももちろん
扱うが、ハイデガーは何よりこの本で「存在とは何か」を
明らかにしてみせようと言う。

ハイデガーによれば、これは今まで哲学史上、次第に忘れ
去られてきていた問いであり、自分が今ここではじめて
自覚的に問うてみせよう、というのである。

「存在とは何か?」かなり漠然とした問いだ。
どう考えたらいいのかもわからない。無理やり答えようと
しても、「存在してるから存在なんだ」とトートロジーに
なりそうな感じである。
しかしハイデガーはこれに答えよう、と言う。

しかもそれには、現象学の方法が必要である、とするのだ。
とはいってもやはり、フッサールと全く同じ方法をとる
わけでもない(らしい)。

昭和堂の難しい説明を書けば、フッサールにおいては
事象そのものを扱いはするが、その認識の構造を志向的
相関関係で説明する、という認識論的な学であったのが、
ハイデガーでは、存在者の存在という現象(事象そのもの)を
顕(あら)わにし証示する「存在論」の方向に鋳直されて
いる、という。

この顕わにする、というニュアンスがなかなか微妙で、
ハイデガーの哲学において前・後にも一貫したモチーフで
ある、「頽落」と繋がっている。

ハイデガーによれば、我々は「これこれのものが存在する」
のがどういうことかということを実はすでに知っている
のである。
であるから、何かが目の前に存在するとかいう場合、
それが「存在する」と言うことができるのだ(この考え方は
少しフッサールでも触れたが)。

しかし日常我々は、その判断がどうして可能なのかを
問い詰めてみたりはしないし、厳密に反省して記述したりは
しないから、あえて聞かれるとどういうことなのかわからなく
なる。しかしなんとなくどういうことなのかは、知っている。

その感覚をどこまでも研いでいって明らかにして記述する、
そのことによって「(人間にとって)存在とは何か」を
明確にすることができる、これがハイデガーの言う
「存在とは何か?」に答えるための方法である。

この方法は単に存在そのものの追求に際して優れている
というだけではなくて、普通に生活している生活者の
感覚を基盤にしている
という点で、哲学として非常に
優れたものだと思う。

これを見たときには、さすが哲学史に残るビッグネーム
だけはある、と関心した。

そして、そのために本質直観が必要なこともなんとなく
わかると思う。こうして前期ハイデガーの思索はスタート
する。

その2につづく。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索