≪現代哲学(5)−現象学・フッサールについて<その10>−≫
2004年8月12日<その9からつづき>
さてその9では「事物の一側面」を、「時間・空間的に秩序
だった世界」を前提として、対象を総合的に描き出そうとする
もの、として理解した。
これでもう説明され尽くしたのでは?と思うかもしれないが、
まだ大事な要素がある。
それは「他人」のもつ認識である。
もし周りの人たちが、自分とまったく違う世界認識をもって
いたらどうなるだろうか?想像することは簡単だ。
暗い部屋の中で、自分だけが暗い暗いと思って歩きにくく
しているが、他の人は全然普通に行動できていたりする。
逆に明るい部屋なのだが、他の人は何も見えないといって
全然うまく行動できない。壁にぶつかったりする。
砂糖をなめると甘いと思うのだが、他の人は辛くて仕方ない
と言う。
夜に星空が見えるのだが、他の人は「そんなもの見えない」
と言う。
そんな感覚の違いが、本当に人によってバラバラだったと
したらどうだろうか?
嬉しいと思うこと悲しいと思うこと、正しいと思うこと
間違ってると思うこと、凄いと思うこと、面白いと思う
こと、または、町のどこに何がある、という事実の認識、
そんなものが、各人でバラバラだったとしたら。
果たして「客観的世界が存在する」という確信が持てる
だろうか?
逆に、それらがおおかた他の人と一致する場合なら、
どうだろうか。「確信」がより強められるように思えない
だろうか?
このように、自分の世界認識だけでなく、他人とそれを
言葉などによって共有することによって、客観的な「世界の秩序」
への確信を強めていく構造というものも、人間にはある。
フッサールはそれを、人の間で共有される主観性、
<間主観性>、と呼んでいる。
機械論的認識では、タンパク質その他で構成されたロボット
である、という見方もよくされる「他人」、「人間」で
あるが、少なくとも「自分の生」の中で「生きられている
世界」では、「他人」の持つ意味というのは、ぜんぜん
その表現では言い尽くされないものがあることは分かると
思う。ハイデガーやサルトルなども、「他人」の存在は
非常に重要視している。ただの客観的事物とは違うのだ。
、、、さて、こうして説明された<志向性>と、人間に
とっての「世界の秩序」のつくられかたであるが、フッサールに
よれば、これこそが自然科学による世界説明の地盤、なので
ある。
あまり詳しく考えなくても分かると思う。<志向性>と
こうした世界秩序の考え方は、人間が今のような自然科学を
得る以前から通じるものだと思う。
こうして得られる「確信」のもと、「世界が数学的法則に
よって支配されている」と仮定し、自然に法則を当てはめる
ことによって生み出されたのが「自然科学」なのである。
ここまではいい。この自然科学が生み出されて後が、
フッサールにとっては問題だったわけで、それはもう前にも
述べたことだが、この自然科学があまりにも実証主義的・
数学的になりすぎたせいで、本来人間の生活的感覚に
基づいて作られたはずの自然科学ほか各種学問が、
生活空間とかけ離れた無機質なものに成り下がっている、
というのである。
学問は本来、生活感覚に基盤があるのであるから、いつも
ここを出発点とせねばならない。「世界が数学的法則に
支配されている」というが、そんなことは証明しようが
ないことで、仮定にすぎない(蓋然的には確かだとは言える。
俺にもそういう「確信」はある)。それよりももっと確かな、
人間の生活感覚こそをいつも起点におくべきなのである。
人間が仮定しているだけの「数学的法則に支配された
世界」などを目指すべきではない。
そうすることによって学問が生気を取り戻し、さらに
人間の「生の問題」を解決するためのものになりうる。
元々学問に要請されていたことは、生活感覚に根付いた
問題を解決したり、客観性をもたせて、普遍的な理解を
人々にうながすことにほかならない…だから、心理学とか
社会学において諸説対立が続き、理論がまとまらないとき
には、「どちらが客観的に正しいのか(真理に近いか)」
と考えてはならない。どちらの理論が、どのような
必要とか、事実に促されて形成されたかを問う必要が
あるのである。
少し陳腐な表現ではあるけど、元々人間が何か「真理」を
想定できることが間違いである、とも言える。
絶対に正しい真理、社会制度があるはずだ、考えに考えて、
ついにそれにたどり着いた─そう考えた人たちが、歴史上
どういう惨劇を引き起こしているか、想像してみるとよい。
「最大の危険は、善と義を主張する者のもとにある」、また
「真理は醜い」─とニーチェが言った理由がなんとなく
分かる気がする。
むしろ、人にはそれぞれの「確信」があるだけなのだ、
だから、どこかに真理があって自分はそれに近い位置にいる
のだから、俺を認めろ、とお互いが言い合って、終わることの
無い無益な対立を続けるのではなく、お互いの「確信」を
認め合うことこそが肝要なのである、と考えたほうがいいの
ではないかと思う。
(もちろん、ある程度の普遍性だって期待していいとも思う。
誰かと価値観を共有したければ、相手の「確信成立の根拠」
を取り出す姿勢が大事だろうと思う)
そういう考え方さえあれば、イラク戦争のような、信念
対立による部分もある戦争も減るのではないだろうか。
さてその9では「事物の一側面」を、「時間・空間的に秩序
だった世界」を前提として、対象を総合的に描き出そうとする
もの、として理解した。
これでもう説明され尽くしたのでは?と思うかもしれないが、
まだ大事な要素がある。
それは「他人」のもつ認識である。
もし周りの人たちが、自分とまったく違う世界認識をもって
いたらどうなるだろうか?想像することは簡単だ。
暗い部屋の中で、自分だけが暗い暗いと思って歩きにくく
しているが、他の人は全然普通に行動できていたりする。
逆に明るい部屋なのだが、他の人は何も見えないといって
全然うまく行動できない。壁にぶつかったりする。
砂糖をなめると甘いと思うのだが、他の人は辛くて仕方ない
と言う。
夜に星空が見えるのだが、他の人は「そんなもの見えない」
と言う。
そんな感覚の違いが、本当に人によってバラバラだったと
したらどうだろうか?
嬉しいと思うこと悲しいと思うこと、正しいと思うこと
間違ってると思うこと、凄いと思うこと、面白いと思う
こと、または、町のどこに何がある、という事実の認識、
そんなものが、各人でバラバラだったとしたら。
果たして「客観的世界が存在する」という確信が持てる
だろうか?
逆に、それらがおおかた他の人と一致する場合なら、
どうだろうか。「確信」がより強められるように思えない
だろうか?
このように、自分の世界認識だけでなく、他人とそれを
言葉などによって共有することによって、客観的な「世界の秩序」
への確信を強めていく構造というものも、人間にはある。
フッサールはそれを、人の間で共有される主観性、
<間主観性>、と呼んでいる。
機械論的認識では、タンパク質その他で構成されたロボット
である、という見方もよくされる「他人」、「人間」で
あるが、少なくとも「自分の生」の中で「生きられている
世界」では、「他人」の持つ意味というのは、ぜんぜん
その表現では言い尽くされないものがあることは分かると
思う。ハイデガーやサルトルなども、「他人」の存在は
非常に重要視している。ただの客観的事物とは違うのだ。
、、、さて、こうして説明された<志向性>と、人間に
とっての「世界の秩序」のつくられかたであるが、フッサールに
よれば、これこそが自然科学による世界説明の地盤、なので
ある。
あまり詳しく考えなくても分かると思う。<志向性>と
こうした世界秩序の考え方は、人間が今のような自然科学を
得る以前から通じるものだと思う。
こうして得られる「確信」のもと、「世界が数学的法則に
よって支配されている」と仮定し、自然に法則を当てはめる
ことによって生み出されたのが「自然科学」なのである。
ここまではいい。この自然科学が生み出されて後が、
フッサールにとっては問題だったわけで、それはもう前にも
述べたことだが、この自然科学があまりにも実証主義的・
数学的になりすぎたせいで、本来人間の生活的感覚に
基づいて作られたはずの自然科学ほか各種学問が、
生活空間とかけ離れた無機質なものに成り下がっている、
というのである。
学問は本来、生活感覚に基盤があるのであるから、いつも
ここを出発点とせねばならない。「世界が数学的法則に
支配されている」というが、そんなことは証明しようが
ないことで、仮定にすぎない(蓋然的には確かだとは言える。
俺にもそういう「確信」はある)。それよりももっと確かな、
人間の生活感覚こそをいつも起点におくべきなのである。
人間が仮定しているだけの「数学的法則に支配された
世界」などを目指すべきではない。
そうすることによって学問が生気を取り戻し、さらに
人間の「生の問題」を解決するためのものになりうる。
元々学問に要請されていたことは、生活感覚に根付いた
問題を解決したり、客観性をもたせて、普遍的な理解を
人々にうながすことにほかならない…だから、心理学とか
社会学において諸説対立が続き、理論がまとまらないとき
には、「どちらが客観的に正しいのか(真理に近いか)」
と考えてはならない。どちらの理論が、どのような
必要とか、事実に促されて形成されたかを問う必要が
あるのである。
少し陳腐な表現ではあるけど、元々人間が何か「真理」を
想定できることが間違いである、とも言える。
絶対に正しい真理、社会制度があるはずだ、考えに考えて、
ついにそれにたどり着いた─そう考えた人たちが、歴史上
どういう惨劇を引き起こしているか、想像してみるとよい。
「最大の危険は、善と義を主張する者のもとにある」、また
「真理は醜い」─とニーチェが言った理由がなんとなく
分かる気がする。
むしろ、人にはそれぞれの「確信」があるだけなのだ、
だから、どこかに真理があって自分はそれに近い位置にいる
のだから、俺を認めろ、とお互いが言い合って、終わることの
無い無益な対立を続けるのではなく、お互いの「確信」を
認め合うことこそが肝要なのである、と考えたほうがいいの
ではないかと思う。
(もちろん、ある程度の普遍性だって期待していいとも思う。
誰かと価値観を共有したければ、相手の「確信成立の根拠」
を取り出す姿勢が大事だろうと思う)
そういう考え方さえあれば、イラク戦争のような、信念
対立による部分もある戦争も減るのではないだろうか。
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