<その8からつづき>

半端ないですね長さが…

次、志向性について。

フッサールがまず力を注いだのは、現象学的には、「知覚体験」
はどうなっているか、ということの本質直観。

あらゆる学問がこの「知覚」の正しさを前提しているわけで
あるし、この「知覚」から得た情報で理論を構築していくわけで
あるから、ここは大事なところだ。

知覚の対象となる事物、と、それを含む時間・空間的認識の、
ふたつについて説明がある。このふたつは別々ではなくて
リンクするもの。

ちょっと表現が難しいが、前者は「今、目の前にあるコップとか
本とかの、知覚の対象になってるもの」で、後者は、「その
コップとか本を認識している場所の空間、認識するまでに
経過・通過してきた時間と空間、それらのノエマとしての
認識(と記憶)」くらいに理解するとわかりやすいと思う。

そして後者にはたんに「自分にとっての世界」だけではなくて、
もうひとつ大事な要素が「確信成立の根拠」として加わっている。
煩雑になるので、それは後で追加します。

最初に、対象としての事物から。

ここで「はじめての哲学史」のたとえ話がけっこう分かりやすい
ので、俺自身の解釈も加えつつ、紹介しておきます。

 
<机の上に、赤い線の模様がついた、丸くて白いものが置いて
あるのに気づいた。「野球のボールだ」と思い、手にとって
ぐるっと回してみる>

最初見たときに、見慣れた模様が見えたので、「これは
野球のボールだ」と思ったのだ、と思う。しかしこれは、
「目の前の球が、野球のボールだから」そう思ったのだろうか?

違う。ボールに、見慣れた赤い模様がついているから、
野球のボールだと思ったのである。つまりは、

野球のボールだから「野球のボールだと思った」のではなくて、
「野球のボールだと思った」からそれが野球のボールである
という確信をもった
、のである。

 
こんな言い換えに意味はあるのだろうか?とも思えるが、
もう少したとえ話をすすめよう。

さて、手にとって見てみて、ぐるっと回してみたのだが、
後ろには模様がなくて、白いままだった、とする。

さらに、持ってみたもののやけに軽い。これは実は、精巧に
作られたイミテーションで、後ろの部分は作りかけで、まだ
模様がなかったのだとしたら。

さて、最初に抱いた(弱い)確信である「野球のボールだ」
が変更されて、「これはイミテーションだな」というより強い
「確信」が代わりにやってくることがわかると思う。

つまり、「確信」は、その「もの」が実はなんであるか、という
ことには、関わりがなかったりする場合があるのだ。

重さも模様も手触りも同じようなイミテーションだったとして、
それを人間は見抜けはしない。「知覚」は客観的性質をそのまま
受け取ったりはしないのである。

 
では逆に、ぐるっと回してみたら、見慣れた赤い模様が
続いているし、手触りも重さも同じだったとする。
するとおそらく、「これは間違いなく野球のボールだ」という
「確信」をもっと強める結果になると思う。

さらに、今見えているのがその「野球のボール」の一側面に
過ぎないにもかかわらず、頭の中では、3Dモデルの野球ボールの
像を、目の前の丸い表象に当てはめていることが分かる。

この、目の前の表象の連続を受け取ってそれを一つの対象へ
(この場合は「野球のボール」へ)総合していくはたらき、
これを<志向性>という。

イミテーションだった場合でも、見えていたボールの一側面
から、「野球のボール」全体を思い描くようなはたらきが
あった。そんなふうに解釈するといいと思う。

「知覚の束」にあらわれている一側面から、そのもの全体、
そのものの持つ意味、そういったものを思い描くはたらき、
そんな感じで理解するといいと思う。

また同時に、この<志向性>のはたらきによって得られる
「確信」は、いつでも変更可能なものだ、ということも
逃がせないポイント。

端的に言うなら、物理学だって、現代の最新理論が覆される
ようなことがあれば、現代の我々の「確信」をあっという間に
覆してしまうと思う。

 
つぎに、その野球のボールを含む時間・空間的認識について。

もしそのボールを取ったのが、手品師の道具置き場だったり
したらどうだろうか?「このボールにも、ひょっとして何か
仕掛けがあったりするのじゃないか」と思うのではないだろう
か?

精巧なイミテーションばかりが置いてある部屋の中にこれが
あれば、やはり「これもよくできているが、イミテーション
なんだろうなあ」と思うはずだ。

このように、それまでに見てきたもの、経過してきた時間、
その場における空間、それによっても、その「もの」の
性質に対する意味づけが変わってくると思う。

さらにもう少し根本をつきつめれば、この世が「きちんと
秩序だって存在している世界」、目の前の事物がいきなり
消滅したり現れたりが頻繁に繰り返され、時間が遅く
なったり速くなったりめちゃくちゃになったり「しない」
世界である、ということを前提としている認識である、
ということは分かると思う。

もしそんな世界であれば、目の前の事物がなんであるか
という認識などできなくなってしまうだろう。

つまりは、それまでに経験されてきている世界、という
ものが、目の前の対象の認識に非常に影響しているのだ。

もちろん、実際に世界がそれほどカオスになることは
ありえないし、周りの状況がどういう場所であれ、科学的
検証にかければそれが何であるか、というのは確実に判明は
する(という「確信」が俺にはある)。けれどここで重要
なのは、人間はそういう「対象となっている事物の
一側面」を、「それまでに経過・通過してきた時間・空間、
さらにその事物をとりまく空間」、そういう「世界」の
存在を前提にしてその事物の「全体像を思い描く」

そうした<志向性>によって目の前の事物を理解
するはたらきがある、ということで、それは加えてまた、
科学的検証のおよばない領域、人間の「善」、「美」、
それ以外の価値判断においても同じ、ということだ。

 
その10につづく。

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