≪現代哲学(5)−現象学・フッサールについて<その8>−≫
2004年8月12日<その7からつづき>
さて、客観性・真理性というのが、よくよく考えてみれば、
体験の中で生じる「確信」にすぎないということは理解できる
と思う。
実はこれは、「善」「美」についても言えることなのだ。
何かについて「これが正しい」「これが美しい」というのは
これも「確信」である─そう、これに気づくと、現象学が
学問をより人間の生に近い場所に編みなおすための学
ということが理解できると思う(ちなみに、それは今までの
実証主義的学問でもやっているではないか、とも言えそう
だが、そうした扱い方は結局正しい・間違いを実証によって
確かにせねばならず、解決不可能な諸説対立を生むことに
なるのは、歴史が示しているとおり)。
人間の体験そのものを学問の対象とすることで、本来
学問が扱えない、扱っても決定的な結論を出すのは不可能
としてきた善・美の問題を取り扱うことが可能になる…
これが、フッサールの洞察の核心だという。
真善美という価値、または感情、欲望などの本質は、
体験をじかに観取することによって考え進めていくことが
できる、これがフッサール現象学である。
それには、現象学的還元、本質直観という
ふたつの方法が必要ということは前にも述べた。
ここでもう一度、噛み砕いてどういうことなのか見てみる。
現象学的還元。ものすごく簡単に言えば、この世界が
実際に存在しているかどうかについて、「どっちだか
分からない」ことにしておく。これを判断停止(エポケー)
する、と言う。目の前に広がる表象(直観された外的知覚)
と、それによって作られる確信は、あくまで主観的体験の
なかで生じるものだとしておく、のである。
しかし、一応、主観の捉え方にも主観と客観(と確信をもって
いるもの)があって、ノエシス(主観)-ノエマ(客観)
という言葉であらわす。
本質直観(本質観取)。たとえば、喜びの感情を
得たとする。それは色々な具体的な事象が起き、それを
見ることで起こったりするものだが、喜びなら喜びの
その感情自体には、どの主観にも共通する共通本質が
あるはずで、それを体験を注視しつつ取り出して記述
すること。
もう少し詳しく言えば、人間はある感情を「喜び」だと
表現できる。表現できるからには、どういった感情が
「喜び」と呼ぶにふさわしいか知っているはずなのだが
それを厳密に表現する術は知らない。だから、それを
詳しく記述するために、純粋に体験を注視する、それが
本質直観である。
これらの方法は実は、フッサール以前の優秀な哲学者は
無自覚的にではあれど用いていたもの。そういう意味でも、
この現象学の方法は、伝統的哲学の保守本流を受け継ぐ
正統哲学と呼ぶにふさわしいのである。
さてこの方法を用いれば、従来科学で実証可能とされて
いたなにが「真(真理)」か、という問題のみならず
「善」「美」についても同じとはいえずとも、かなり
学問的に扱えるはずであるが、フッサールにとっては、
従来的な学問の土台からの建て直しが急務であったので、
もっぱら「真」のみを扱っていたという。
そしてフッサールが「真」の問題をどのように扱ったかと
言えば、もう言うまでもないですけども、「どこかにある
真理に、実証や論理をつきつめることでたどり着ける」
という考え方ではなく、「人間にとって「真理」とは
どのように「確信されるもの」なのか、その仕組みとは?」
というもの、なんですね。
それともうひとつ<志向性>というキーワードがあるんですが
それはその9で。
さて、客観性・真理性というのが、よくよく考えてみれば、
体験の中で生じる「確信」にすぎないということは理解できる
と思う。
実はこれは、「善」「美」についても言えることなのだ。
何かについて「これが正しい」「これが美しい」というのは
これも「確信」である─そう、これに気づくと、現象学が
学問をより人間の生に近い場所に編みなおすための学
ということが理解できると思う(ちなみに、それは今までの
実証主義的学問でもやっているではないか、とも言えそう
だが、そうした扱い方は結局正しい・間違いを実証によって
確かにせねばならず、解決不可能な諸説対立を生むことに
なるのは、歴史が示しているとおり)。
人間の体験そのものを学問の対象とすることで、本来
学問が扱えない、扱っても決定的な結論を出すのは不可能
としてきた善・美の問題を取り扱うことが可能になる…
これが、フッサールの洞察の核心だという。
真善美という価値、または感情、欲望などの本質は、
体験をじかに観取することによって考え進めていくことが
できる、これがフッサール現象学である。
それには、現象学的還元、本質直観という
ふたつの方法が必要ということは前にも述べた。
ここでもう一度、噛み砕いてどういうことなのか見てみる。
現象学的還元。ものすごく簡単に言えば、この世界が
実際に存在しているかどうかについて、「どっちだか
分からない」ことにしておく。これを判断停止(エポケー)
する、と言う。目の前に広がる表象(直観された外的知覚)
と、それによって作られる確信は、あくまで主観的体験の
なかで生じるものだとしておく、のである。
しかし、一応、主観の捉え方にも主観と客観(と確信をもって
いるもの)があって、ノエシス(主観)-ノエマ(客観)
という言葉であらわす。
本質直観(本質観取)。たとえば、喜びの感情を
得たとする。それは色々な具体的な事象が起き、それを
見ることで起こったりするものだが、喜びなら喜びの
その感情自体には、どの主観にも共通する共通本質が
あるはずで、それを体験を注視しつつ取り出して記述
すること。
もう少し詳しく言えば、人間はある感情を「喜び」だと
表現できる。表現できるからには、どういった感情が
「喜び」と呼ぶにふさわしいか知っているはずなのだが
それを厳密に表現する術は知らない。だから、それを
詳しく記述するために、純粋に体験を注視する、それが
本質直観である。
これらの方法は実は、フッサール以前の優秀な哲学者は
無自覚的にではあれど用いていたもの。そういう意味でも、
この現象学の方法は、伝統的哲学の保守本流を受け継ぐ
正統哲学と呼ぶにふさわしいのである。
さてこの方法を用いれば、従来科学で実証可能とされて
いたなにが「真(真理)」か、という問題のみならず
「善」「美」についても同じとはいえずとも、かなり
学問的に扱えるはずであるが、フッサールにとっては、
従来的な学問の土台からの建て直しが急務であったので、
もっぱら「真」のみを扱っていたという。
そしてフッサールが「真」の問題をどのように扱ったかと
言えば、もう言うまでもないですけども、「どこかにある
真理に、実証や論理をつきつめることでたどり着ける」
という考え方ではなく、「人間にとって「真理」とは
どのように「確信されるもの」なのか、その仕組みとは?」
というもの、なんですね。
それともうひとつ<志向性>というキーワードがあるんですが
それはその9で。
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