<その6からつづき>

フッサールによれば、実証主義的傾向の問題点は、自然を
客観的実在とみなして、<客観的世界は数学的法則によって
支配された全体であって、その法則性は実験と数学的手法を
用いることによって捉えることができる>、つまり、
認識の客観性は「客観それ自体」の一致によって
測られる、と考えたところにある。

しかしこの考え方は、大陸合理論とイギリス経験論の
論争にみるように、解きがたい、解決不可能とも思える
難問が生じてくるのである。

デカルトは、主観はそれ自体から外に出て、客観と一致する
ことはできない
、ということを示した。

目の前の事物が確かであることを、どうして五感が証明して
くれよう?これは現代の物理学の知識があっても分かることだ。
感覚は時に狂うし、人間は夢も幻覚も見る。

しかしだからといって、客観的事物の存在は、何よりも
明らかに感じられる。一定の法則をもってあらわれる表象で
その存在は明らかではないか、という意見も考えられる。

さて、どっちの立場にも、立とうと思えば立てなくはない
と思いませんか。

カントでいちおうの結論が出ていた問題だったが、結局
その後たいした進展もなく、哲学史上の近代哲学は終わった。

そしてこの難問は放置されたまま、自然科学的実証主義が
唯一の「客観性」であるとして、通用していくことになった
のである。

学問の危機を解決するためには、この難問をなんとか
解決して、「客観性」「真理性」とは一体何なのか、という
ことを理解しなおさなくてはならない。

では、フッサールはこの問題をどう解決したかというと、
はじめての哲学史ではこうある。

<認識の客観性や真理性ということを、主観の外側に
存在する客観との一致と考える必要はない。たしかに、
デカルトのいうように主観は主観の外に出られないが、
それでいっこうにかまわない。「これは真だ、客観性が
ある」という確信が生じるのは主観の内側でのことだからだ>


 
俺なりに解釈すれば、「人間が「確かである」と思うことが
絶対真理であるとする確かな理由などない。人間にはそれぞれ
の「確信」があるのであって、例えばイスラム教徒にはコーランが
絶対真理なのだ。しかしそれは誰にでも通じるものではない。
「確信」には、どの程度信じているか、誰でもそう思うか、
「強度」と「普遍性」という尺度があると思う。人間に
あるのはただ、「確信」の「強度と普遍性の違い」だけ
なのだ」ということだと思う(この強度とか普遍性という
のは、俺オリジナルの言葉なんで全然つきつめられてない
言葉ですけど)。

そして自然科学などの手法は、その「強度と普遍性」が
両方とも、強く得られる手法だったのだ、と思う。

その8につづく。

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