≪現代哲学(5)−現象学・フッサールについて<その6>−≫
2004年8月9日<その5からつづき>
しかしアレですね、生の哲学とかと比べて、ずっと「本質を
衝いている」ような気がする哲学ではありませんか。だから
キーワードは多少難解でも、言おうとしていることはなんとなく
分かる。それはフッサールが重視した「生活世界」に根ざす
学を構築しようとした、哲学だからなんだろうか。
生の哲学も、振り返ってみてみると、割とフッサールが直観
していたところと重なる部分もある気もするけどね。
哲学者の息の長いリレーを経て、やっとここまでたどり着いた。
さて、もう少し分かりやすく書いてある「はじめての哲学史」を
参照しつつ、もっと具体的に、俺に理解しやすくまとめます。
彼の、学問の基礎付けに対するこだわり。それは、単に
「学問はこうでなくてはならない!」というような、こう、
ボタンがずれて付けられてると気になってしょうがない、
みたいな、論理の整合性をただ希求してただけのものでは
ない、らしい。
彼が特に強調していることには、学問が「生」の問題に
触れられなくなっている、ということだ。
フッサールによれば、もともと近代の学問の理想は「意味の
ある一切の問題を、学的な仕方でとりあげようとするもの」
─だったのに、現代では、学問は善とか美とかいう、価値の問題
「生きることにじかにかかわる問題」について一切語っては
ならない、とされている。
なぜそうなったのかといえば、学問の「客観性」ということが
きわめて狭い仕方で理解されるようになったからである、と
彼はいう。
<学問の客観性は、主観的な価値判断を排除したうえで、
客観的な資料やデータにもとづいて確実に推論するところに
成立する>
というこの考え方は、心理学、社会学、歴史学その他人文・
社会科学が、真に科学となるためには、自然科学に倣わねば
ならない、という風潮から生まれたものだったという。
フッサールはこれを学問の「実証主義的」傾向と呼んでいるが、
しかしこれは、人の生の意味や価値にかかわる問いが、
学問の対象から除外されてしまったことを意味する。
「学問なんて、生きるうえではほとんど役に立たない!」
という若者に多いこの意識は、実はここからきているのだ、
というのである。
なんでこの「実証主義的」傾向が学問の流行になっているのか
といえば、元々心理学とか社会学の領域では、異説が対立して
全然決着がつかず、決定的な理論が確立しないという事情が
あった。思弁的であいまいな要素をはぶいて、スッキリした
科学にしようとする意図があったといえる(とはいえ、
結局諸説対立が無くなったわけではないが)。
この諸説対立と、生の意味、価値への問いの排除。
これが意味することは、<自然、社会、精神におけるあらゆる
困難や謎に立ち向かってともに解決していこう、それは学問的な
仕方で可能なはずだ>という近代初頭に抱かれた学問に対する
理念が、挫折を見たということだという。
この事態を「危機」であらわしたフッサールは、学問に再び
生の問題を扱える力を取り戻させようとする。
彼の学問に対するこだわりは、人々が協力しあいながら
困難を解決していける、学問はそのためにこそあるべき、
というヴィジョンへのこだわりだったというのである。
では具体的に、この「実証主義的」傾向の難点とは何なの
だろうか?
その7につづく。
しかしアレですね、生の哲学とかと比べて、ずっと「本質を
衝いている」ような気がする哲学ではありませんか。だから
キーワードは多少難解でも、言おうとしていることはなんとなく
分かる。それはフッサールが重視した「生活世界」に根ざす
学を構築しようとした、哲学だからなんだろうか。
生の哲学も、振り返ってみてみると、割とフッサールが直観
していたところと重なる部分もある気もするけどね。
哲学者の息の長いリレーを経て、やっとここまでたどり着いた。
さて、もう少し分かりやすく書いてある「はじめての哲学史」を
参照しつつ、もっと具体的に、俺に理解しやすくまとめます。
彼の、学問の基礎付けに対するこだわり。それは、単に
「学問はこうでなくてはならない!」というような、こう、
ボタンがずれて付けられてると気になってしょうがない、
みたいな、論理の整合性をただ希求してただけのものでは
ない、らしい。
彼が特に強調していることには、学問が「生」の問題に
触れられなくなっている、ということだ。
フッサールによれば、もともと近代の学問の理想は「意味の
ある一切の問題を、学的な仕方でとりあげようとするもの」
─だったのに、現代では、学問は善とか美とかいう、価値の問題
「生きることにじかにかかわる問題」について一切語っては
ならない、とされている。
なぜそうなったのかといえば、学問の「客観性」ということが
きわめて狭い仕方で理解されるようになったからである、と
彼はいう。
<学問の客観性は、主観的な価値判断を排除したうえで、
客観的な資料やデータにもとづいて確実に推論するところに
成立する>
というこの考え方は、心理学、社会学、歴史学その他人文・
社会科学が、真に科学となるためには、自然科学に倣わねば
ならない、という風潮から生まれたものだったという。
フッサールはこれを学問の「実証主義的」傾向と呼んでいるが、
しかしこれは、人の生の意味や価値にかかわる問いが、
学問の対象から除外されてしまったことを意味する。
「学問なんて、生きるうえではほとんど役に立たない!」
という若者に多いこの意識は、実はここからきているのだ、
というのである。
なんでこの「実証主義的」傾向が学問の流行になっているのか
といえば、元々心理学とか社会学の領域では、異説が対立して
全然決着がつかず、決定的な理論が確立しないという事情が
あった。思弁的であいまいな要素をはぶいて、スッキリした
科学にしようとする意図があったといえる(とはいえ、
結局諸説対立が無くなったわけではないが)。
この諸説対立と、生の意味、価値への問いの排除。
これが意味することは、<自然、社会、精神におけるあらゆる
困難や謎に立ち向かってともに解決していこう、それは学問的な
仕方で可能なはずだ>という近代初頭に抱かれた学問に対する
理念が、挫折を見たということだという。
この事態を「危機」であらわしたフッサールは、学問に再び
生の問題を扱える力を取り戻させようとする。
彼の学問に対するこだわりは、人々が協力しあいながら
困難を解決していける、学問はそのためにこそあるべき、
というヴィジョンへのこだわりだったというのである。
では具体的に、この「実証主義的」傾向の難点とは何なの
だろうか?
その7につづく。
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