<その3からつづき>

・中期

主著「イデーン」が出たころがこの頃らしい。

現象学の基礎固めをした後、どんどん思索は深まっていき
現象学の「方法」を確立していくことになる。

その方法とは、「現象学的還元」と「本質直観(観取)」。

また、記述的心理学について、それは「意識をありのままに
捉えるのを超え、それを自我の心理的作用として受け取る」、
という「心理学的統覚」を前提としている、と断じ、
自分の現象学は、記述的心理学ではない、と断言した。

そして、意識にありのままに与えられる以外のすべての
ものを遮断するということを、現象学の「方法」として
提示するようになる。

これが「現象学的還元」。もー全部取っ払って無前提にする
ということ。

ありのままの「志向的(心がある方向に向かう)体験」、
「純粋現象」のみを問題とするのだ。

これが現象学的還元。ドイツ語で書いてるとこがあるので
適当に日本語読みに直せば「ファイノメノロジスチェ・
レダクチオン」。なんとなくカッコイイ気も…

またこれだけではなくて、「本質直観」がもうひとつ必要。
「現象学的還元」が消極的だから、こっちは積極的
なんでしょうか。

これ以前にすでに「範疇的直観」というものによって、
<事物が感性的に直観される(知覚の束のようなもの?)
と同様に、事物の本質も非感性的ではあるが(理性によって、
ということか)直観されうる>ということが明らかになって
いるという。これはさきの「論理学研究」の第一〜第六研究
のうち第六で証明されたらしいけど、詳しくは分からない。

ただ「現象学的還元」だけだと、流れ行く個々の純粋な
現象だけが知覚されているだけという状態になることがわかり、
その本質的構造を捉えるために「本質直観」が要請される
ことになったのである。

「本質直観」の具体的内容についてはこれ以上は詳しく書いて
ないので、後期およびまとめに譲るとして、もう少し
「現象学的還元」の重要なキーワードも絡めてまとめます。

中期の主著「イデーン」では、「現象学的還元」は、
「自然的態度の一般定立(定立=何事かを肯定すること、その
命題。決まりごと、みたいに理解すると分かりやすいだろう
か)」を遮断すること、という。簡単な言い方では

<ごく自然な生き方をしている人間としての私たちが
前提として日常つねにすでに何気なく実行してしまっている
世界定立>

これを「遮断」することである。

この遮断は現象学で「判断停止」、「エポケー」と言われる。

これは、客観的事物が存在するという我々の思い込み、
のみならず、その他様々な臆見(ドクサ)を遮断する
方法として、世界そのものの存在をとりあえず「カッコに
入れる」方法としてよく紹介される。<実際に世界が存在して
いるかどうかは分からない、しかし、我々は世界が存在する
という確信をもっているのは確かである、それはどうして
つくられるのか>、を問う下準備、ということだと思う。

そして、純粋意識における「志向的体験」は、
ノエシス的(主観的)側面と、ノエマ的(客観的)側面
もっている、とするのである。

これは独我論なのでは?とも思える。しかし考えてみると、
認識の主体を人間の主観、精神から切り離して、何らかの
「神の視点」から世の中の主観と客観的事物のあり方を
分析できる、と考えるほうが本当は無理なことなのではないのか。

世界のあり方も自分の精神のあり方も、自分の純粋意識に
おいてノエシス-ノエマとして存在しているのであり、
そこを出発点とすべきだ、というのは確かに理解できる。

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