<その2からつづき>

・前期

それでは前期から。
前期は、さきの「論理学研究」からはじまる現象学。

現象学は、ここら辺ではもと「記述的心理学」と呼ばれて
いたという。心理学には、心理学的な諸現象の発生的連関を
経験的に説明(人間の生理的反応とか、脳波と心理の関係
を関連づけるとか、アンケートで仮説を根拠づけるとか?)
づける、「発生的心理学」というものと、そうではなくて、
目の前の事象を受け取る自分の「主観」のみを反省することに
よって認識の仕組みを取り出し記述する「記述的心理学」と
いうものがある、らしい。

見てわかるように、「記述的心理学」は、「発生的心理学」が
前提としている認識の「確かさ」をもう一度基礎から
やり直すような学問で、こちらのほうがより根本的、
哲学らしいものであることは分かると思う。

自然科学も、心理学も、社会学も、何もかも、この
人間の認識の確かさを前提としていることは疑えない。
もし、人間がこの認識において、陥りやすい先入見に
いつも陥っているとしたら…

それを発見することは、全ての学問において重要なことだ。

そしてまた、それは全ての学問を基礎づけるものであるが
ゆえに、何らの前提も持っていてはならない。

「無前提性という原理」は、フッサールが追い求めたものの
ひとつ(そして、非常に哲学にふさわしい「原理」だと思う)。
数学でも論理学でも最低限の公理があるが、そういう決まり
ごとを抜きにして、素直に自分の主観を振り返ることのみで
それを正確に記述する。

<およそ認識論的な研究は、それがあらゆる理論的認識を
基礎づけるものである以上、どんな理論的前提(先入見)
をも含んでいてはならぬ>

もう少し細かく言うなら、全ての学問は、そのはじまり
において、何らかの「認識」が先立っているはずである。
「認識」が先にあり、これを記述することではじまった。

それはそうで、いきなり数学の公理とか、社会学の書が
ポンと湧いてきたわけはない。はじめは認識からはじまり、
認識によってその中の法則を見出そうとしたのだ。

ならば、何も前提に置かないときの「認識」とはいかなる
ものであるのか?それを確かにすることによって、認識に
おいて陥りやすい臆見(ドクサ)を取り除く
、これが
フッサールのひとつの関心だったのではないだろうか。

そこで、何の前提もおかず、あらゆる理論化に先立って
ただ心にあらわれる心的体験を、純粋にありのままに記述する。
これこそが無前提的であり、認識論の基礎付けにふさわしい。

 
主観のみ考えるとき最初に明らかなのは、やはりデカルト的
コギトの明証性である。思惟する自分の存在は疑い得ない。
そこからデカルトのように実体の存在を決めるところにいかず
に、あくまで直観にとどまる。

師であるブレンターノも記述心理学を用いていたというが、
フッサールの現象学と、どのあたりで齟齬があったのかは
定かではない。ただ、ブレンターノも、記述心理学の方法を
用いて主観を精緻に分析した結果、主観のもつ、対象への
「志向的」な関係を明らかにした(「力への意志」のような
ものだと思う)。

無前提にただ主観への対象のあらわれかたを分析すれば、
対象が主観にとってどのような意味をもっているか…
というところに自然と絞られてくる。「役立つ/役立たない」、
「食べられる/食べられない」といった「志向」が
目の前の対象を秩序づけていることがわかる。まぁ、
実際はそう単純でもないでしょうけども。。

フッサールはこの点を高く評価しつつ、しかし心理学
主義(心理学を前提とする主義)に陥らない形で師の論を
批判的に継承し、自らの現象学を推し進めていった。

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