フッサールめっちゃ長いので小分けにします。

しかし、いかにも理解が中途半端というのが自分でも
分かるのでこまる。入門書というか哲学史本を自分
解釈でまとめてるだけなのでご容赦を…、、

エトムント・フッサール(1859〜1938)、現代思想に
おいても大きな潮流の一つである「現象学」の創始者。

まず「現象学」とは一体どういう学問なのか?について、
少し行を割こうと思う。ここははじめての哲学史の
現代哲学の序章に依拠する。

その後フッサールの背景説明、ここを昭和堂に頼って、
そしてフッサールの具体的な論、ここをはじめての哲学史より
紹介します。何せ、はじめての哲学史は「現象学研究会」の
12人の哲学者によって書かれているし、だからフッサールも
かなりページを割かれているので。。

 
・まず「現象学」とは?

これを説明するために、哲学の本来のあり方と、これまでの
哲学史の敷衍をまとめようと思う。

哲学の創始、タレスの昔から変わらない、哲学の原理とは
何だっただろうか?

それは、

1.物語を使わず、抽象概念を使い、
2.「原理」を捉えることで考え方のルールを定めて、
3.つねにもっと根源的なところから考え直し、それによって
世界の様々な問題について、誰もがよい考え方を交換できる
ような、開かれた言語の領域、あるいは言語空間を作り出す。

というものだった。

これについて象徴的な仕事をしたのはデカルト。
彼はその時代のどうしようもない諸説対立に対して、
「これなら誰もが疑い得ない出発点に出来る」という意味で
コギトの概念を提出した。

それについてデカルトは確かにひとつの答えを見出したとは
言えるが、しかし、フッサールによれば、ここでも主観-客観
問題、つまり「認識問題」が残ってしまった(それが大陸合理論
vsイギリス経験論のかたちで残った)。

そしてまた、自然科学とか心理学、社会学、歴史学などに
おいても、今もってデカルトが望んだような状態には
なっていない。諸説が乱立、対立し、まとまる気配がない。

これはフッサールが言うことには、デカルトに端を発した
「認識問題」が今もって解かれていないことによるのである。

だから、まず何より、この「認識問題」をなんとか片付ける
必要がある。そうすることによって、近年の学問に対する
不信、相対主義、懐疑主義を乗り越える原理が見出せるはず
だ…とフッサールは考えた。

デカルト以後、主観はどうやって客観を認識しているのか、
主観は客観にどれだけ近づけるのか、という視点がひとつの
哲学のテーマになっていた。

それに対して、デカルトは「神」と「精神」と「物質」が
存在していて、精神は思惟し、物質は広がりをもつ、と
理解した。物心二元論だ。

大陸合理論では、いや精神など存在しない、それは「神」とか
「モナド」のあらわれのひとつに過ぎない。この世に存在
するのは「神」だけである、、とした。

大陸と違い、キリスト教の影響から少し逃れていたイギリスの
イギリス経験論では、いや物質の存在自体が精神の認識に
よるのであって、物質など存在しない、あるのは精神、いや
「知覚の束」だけなのである、とした。

そしてカントが現れて、いや、「もの自体」はあるにせよ、
それを認識できるのは神だけであり、人間はそれを不完全に
しか、知ることができない、ということでこの問題を片付けた。
(結局カントの考え方だと、物心二元論にはなる。神も存在する)

同時に「主観にかけられている取り外し不可能なメガネ」、
ア・プリオリな総合判断という考え方で普遍論争に
いちおうの答えを出し、「純粋理性の二律背反」を示して
「神は存在するか」「この世のはじまりはいつか」という
古い形而上学を終わらせ、さらに、道徳(善)や美についても
いちおうの答えを出した。

そしてヘーゲルが登場して、カントの道徳の思想を批判。
人間は基本的に自己中心性を持っていて、社会はその
自己中心性をもった人間同士のルールの網の目の総体である
という本質をついた。

その後キルケゴール・ニーチェが登場し、「常に、己自身が
どういう存在なのかを問いなおす」という人間のあり方を
つきつめ、現実と理想の狭間で引き裂かれる人間の「不安」を
キルケゴールが指摘し、またニーチェは世界を認識する原理
としての「力への意志」という考え方を打ち出した。

主観・客観問題、「認識問題」に関しては、とりあえずは
ここまででは、カントの考え方「客観的事物はあるが、
人間にそれをそのまま認識するのは不可能」か、ニーチェの
「事実なるものはない。ただ解釈のみがある」くらいが
提出されていたが、しかしデカルト以来のこの問題は、
まだフッサールにとってしっかり解かれた問題とは
いえなかったようだ。

フッサールは、今日の心理学とか社会学の、調停しがたい
諸説対立は、「諸学の基礎」としての哲学がまだこの
「認識問題」をしっかり解いていないから起こっている
のだと考えた。

哲学はほかの学問と違い、「前提」とすべき論理法則とか
公理、経験的事実などが存在しない学問である。
何も前提を持たないことが前提である唯一の学問の哲学、
他の学問の基礎付けとなる「認識」に関する学(他の学問も
認識の普遍性などを前提としているはず)である哲学が
しっかりこの問題を解かないことにはいかん、と思った
らしい。

うーん、この説明ではいまいちあいまいですな。
具体的に見る時にまた詳しく扱います。それでは、
どんなものなのか次からみていきましょう。

その2へ。

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