つづくヒュームで、経験論は極まる。

でも彼の主著「人生論」は、8年がかりで書いたにもかかわらず、
全然注目されなかったという話です。「印刷機から死産した」と
語っていたという…8年もかけたのに、ちょっとかわいそう。
でも、その後イギリスの教科書にもなる歴史本書いたりとか、
アダム・スミスとかと並んでイギリスの啓蒙活動にかかわったり
して、まあそれはともかく、経験論をきわめた人として哲学史にも
名を残したのだから、やはりたいした人です。

さてバークリーで、もはやこの世に物体は存在しないところまで
いきついた。あるのは経験を蓄える精神と、観念を与えてくれる
神のみである。そしてヒュームに至ると、このふたつまでもが
消えてなくなる。実は精神まで消える。唯心論ですらない。

この世に存在しているのは、「知覚の束」であるにすぎないと
いうのである。

人格とか物体はない。実体も存在しない。そんなものは、感覚から
与えられた「印象」から作り出した「観念」のひとつにすぎない。

認識はまず「印象」が外的知覚としての「感覚」と内的知覚としての
「反省」によって、心に直接、いきいきとしたものとして与えられる。
それで、観念は印象が消えた後に、「記憶」または「想像」によって
鮮明さを欠いたものとして心に残る。まず印象があり、観念は
その後。全ての認識の源泉は「印象」である。

ヒュームは論証についてどう考えていたかというと、これは
「観念と観念との関係」と、「事実」の問題とで分ける。観念同士の
関係する論証などは、「直接的に、ないしは論証的に確実」とされる。
対して事実に対しては、これは蓋然性(確からしさ)でしか知る
ことができない。

さらにヒュームは、原因・結果の概念をも否定する。

例えば、目の前に火がある。この火を触ると熱いが、しかし、
それは「この火に触るから(原因)熱い(結果)」ということを
意味しない。ただ、火に触るという行為の後に、熱いという感覚が
きただけである。

これは、火に触ると毎回熱いと感じるから「火に触る」と「熱い」と
感じるという因果関係が想起されるだけで、そこに「必然的結合」など
存在しないというのである。

確かに、全て疑ってかかって考えれば、今まで熱いと思ってた火が、
明日には冷たく感じるようになってるかもしれない。可能性なら
いくらでもある。

物理法則など、今までそれに外れることがなかったというだけで
あって、それは必然的結合であるとは言いがたい。というより、
それは「印象」として与えられるうちに含まれていない。

「印象」は別に、その因果関係を確実に示す「何か」を伝えは
しないからである。

必然的に思えるものは、理性でなく習慣に基づいているのであって、
何も確かなものではない。

目の前にあるのはただ「知覚の束」、神も魂も実体も存在せず、
神の永遠とか魂の不死などもありえない。

 
しかしこれは、現代を生きる我々の感覚と合うところもあれば、
合わないところもある。だいいち、いちいち因果性を疑っていたら、
まともに生活が送れない。

だがそれはヒュームも十分承知で、こうも言っている。
「あらゆる疑いは私が机を離れ書斎を出る瞬間に消えてなくなる」。

このような懐疑はしたけれども、何も日常生活には関係ないと
思っていたようだ。または、蓋然性で成り立ってはいるけども、
それで何も不自由しないと思っていたのだろうか。

 
ヒュームのそうした態度も含めて、少し極端ではあるが、
「蓋然性」の考えでリアリティをとどめている。これはこれで、
うなずける考え方かもしれない。

ここでヒュームの成したことを再確認しておこう。
この徹底的な経験論によって、哲学は一度破壊されたといえる
かもしれない。しかし、ヒュームがしたかったのはそれでは
なくて、おそらくこういうことだと「はじめての哲学史」では
言っている。

この世(この頃のヨーロッパ)には無益な信念対立が続いていて、
お互いがお互いの「真理」を主張し合って争いを続けている。

だが実際は、何も必然的なものなど印象に含まれてはいない。
それでも人々はそれぞれの蓋然性、または信念をもって問題なく
暮らしている。それでいいのだ。何か絶対的な「真理」など
知らなくても、人にはそれぞれの信念があって問題なく暮らせる、
そのことの自覚をうながそうと思ったのである。

「人生論」でヒュームはこんなことを言っている。

「どんな条件で私たちが事物の存在を信じるようになるのかと
問うことはかまわないが、物体があるのかないのかを問うことは
無益なことだ」


これは、哲学におけるひとつの「答え」だと言えると思う。
コギトの考え方もそうだが、今俺が知るところ、この考え方を覆した
ものはない(またもっと優れた考えがみつかるかもしれないけど、
今はとりあえずそう思っている)。この考え方は、以後他の哲学者によって、
もっと深化されていくことになる。今哲学をするならば、これは
抑えておかなければならない考え方である、と思う。

ただ、問題がみっつ残る(ヒュームも言及していることもあるが)。

・あるのはただ「知覚の束」だというが、その入ってくる知覚に
よる印象を秩序づける先験的なものがなくて、印象を観念として
成立させられるのか?

・数学とか論理学のように、人間に普遍的な理解が可能なものが
あるのはなぜなのか?

・人間がある「信念」をかたち作る仕組みについては、どうなって
いるのか?

が説明されていないのだ。

これにプラス、人間における「真、善、美」の問題、人間の生の
ありかたの問題も含めて、次のカントで大きく統合されることになる。

もう既に、自然科学の領域とは違う分野に入ってきていることが
わかると思う(ていうか、ここまでまとめてて気づいた)。哲学は
「主観の外」を問題にしているのではなくて、主観そのものを深く
探る学になってきているわけだ。この「視点変更」は、まさに
デカルトから始まったのだと思う。

次は社会学とかぶるんでしょうか?ちょっとホッブズとルソー
(とロック)に回り道してから、いよいよ近代哲学2度目の
パラダイムを起こしたカントにいきます。

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