バークリー(1685〜1753)は、ロックの論理の誤りをまず指摘する。

というのは、人間に知覚されているものは、まずロックが
「第二性質」とした、色・香・味・音・手触りだけであると
するのである。「位置」とか「延長(大きさ)」とか「形」
「運動」などは、人間が色とか手触りの知覚を組み合わせて
推理したものにすぎない。

それは確かにそうだ。まず感じられるのは色や音、手触りだ。
形とか延長はその推理なのであって、実体のそれを直接知る
権利など人間は持っていない。これはロックが、デカルトの
考え方の枠から抜けられなかったということかもしれない。

バークリーは客観的事物を認めない。あるのは観念だけ。
「存在するとは知覚されることである」と言っているが、
彼にとって主客問題は存在しない。主観のみがある。普遍性も、
彼にとってはただの「名」にすぎない。これはオッカムと同じ、
普遍性など記号にすぎない、という唯名論の立場をとる。

ところで目の前の景色は自分の思うとおりにはならない。
観念のみであれば、目の前のものも、思考と同じく思うとおりに
変化するはずだが、これはどういうことか。存在するのは
観念のみなのに、目の前の観念は自由にならないし、これは
物体から来るものではない…バークリーによれば、これは実は
「神」なのである。

どう考えたって観念だけなのに、なぜか自由にならない観念が
ある(ちなみに、観念だけといっても欲望とかは自由にならない
のだが、これも神としたのだろうか)、これを説明するには神の
存在しかない、というわけだ。確かに、これはこれで完成しているとは
言えるかもしれない。

しかし観念のみしか存在しないとするのに、神という実体を想定して
しまうところで、ロックよりは進展はしたけれどもやはり経験論の
不徹底と言わざるをえない(べつに徹底させる必要もないかも
しれないけど)。

彼は、経験論をつきつめると神がやはり想定できる!と、信仰の
復活のために経験論をツールとして用いたのかもしれない、と
「はじめての哲学史」では言っている。そうかもしれない。
なにしろ彼は僧職の人であった。

神、精神、物体から、やっと完全に物体が取り除かれた。

ちょっと短かったけど、これでバークリー終わり。

では、さらに発展させて、その神すらも取り去ってしまおう、と
自然と思いつくが、それをしたのがヒュームである。

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