なんかライプニッツって、物理学の教科書とかでも見たことある
ような…?気のせいか。
パスカルの計算機を改良したり、ニュートンと並んで微積分法
を発見して優先権を争ったり、またそれら数学に加えて法律学、
歴史学、論理学、外交官、また当然哲学と、八面六臂の活躍を
みせて、まさに「近世のアリストテレス」と言われたとか。

大陸合理論は物理学に精通してた、と前に書いたけど、この
ライプニッツくらいだったのだろうか。何せ、大陸合理論は
このふたりで終了である。スピノザも勉強家だっただろうから
知らないではなかっただろうけど…。

さて、心を排して無機質、決定論的な一元論にしてしまった
スピノザ。ライプニッツは彼の実体の考えは一部引き継いだけど、
なんとかして人間の自由意志を確保できないかと考えた。

この世は無限であり、この無限に実体がひとつ存在するなら
それは全てを包括する、無限性をもって全てを包括する神ただ
ひとつしかありえない。

ここで壁にぶちあたって、実体が排他的ゆえにひとつという考えでは
これ以上考えられない気もするが、ライプニッツがここで出した
アイデアは、先の微分法に基づいていたと思われる。

彼はまずこの世には、無数の、それ以上分割不可能な、ある
排他的な実体が存在していると考えた。お互い干渉しないものが
無数にあるなら、実体の性質を保ったまま、これが可能である
と考えたようだ。
スピノザは個物は実体の様態でしかないと捉えたが、彼は
それぞれの個物に実体があると考えたわけだ。これは一元論では
なくて、多元論ということになる。

ここで少し、無限小ということについて考えれば、ものは普通
広がりをもっている。広がりをもっている以上、それを分割して
ふたつにできるということになるが、これは実は無限に繰り返す
ことができるので、いつまでも終わらない。まぁ、これもギリシャの
昔から考えられてたことだが、これを解決するためには、
それ以上分割不可能な最小単位を考える必要がある。

こうして考え出されたのが「モナド(単子)」である。

これって広がりはあるのだろうか?形が有るとしたら隙間ができるが
その隙間には何が?もしかしてデモクリトスと同じアイデア?
という疑問がわくが、この「モナド」は人間の精神の原因とも
いわれるだけあって、原子みたいな大きさはない。実体であって
物体ではない。「モナドに通り抜けられる窓はない」とは
彼の言葉。

んな無茶苦茶な、という気もするが、そういうことなのだから
しょうがない。しかしイメージしにくくはある。

これは形而上学的な「一点」なのであって、これが世界を埋め尽くして
いる。

またモナドの本質は「力」であるが、モナドはそれぞれ実体で
あるから、この「力」は他のモナドに伝わらない。
この力によってモナドは、宇宙全体を、同一の宇宙をそれぞれの
仕方で映し出す。この明晰さ、判明さによって、モナドに差が出るらしい。

無意識的であいまいな表象しかもたないのは「裸のモナド」、
「心」ないし記憶をもったモナド、
「精神」すなわち普遍的な認識を行うモナドに区別される。

我々が今感じているコギトはつまりこれのことなんだろうか。

もっと自分にも理解しやすく考えるなら、目の前に広がっている景色は
これは実はモナドがそれを映し出しているにすぎない、という
ことか。しかし自分は何なのかといえば、これはモナド以外
ないんだから、今の自分もモナドだ。
ということは、目の前の景色はこれは、モナドの内部で映されてる
もの?それとも、周りのモナドなのか?いや、干渉しないのだから
周りのモナドから何か受け取るとかは無い。目の前にあるのは、
モナドである自分なんだろう。

モナドは「宇宙の生ける鏡」であり、内に無限を含んだ小宇宙である
という。
そしてまた、なぜモナドがこんな風なのか、といわれれば、
それは神がそのように創ったからなのだという。
神のモナドというのもまた存在するらしい。

ウーン、神秘的だ。しかし多元論の唯物論となると、これしかない
のだろうか。

また経験とか記憶は、自分を形成してるモナドの写し出す表象である
といわれなければならない。そこで、人間がもともと生得観念を
持っているという考えになる。それらは、モナドがそれを映し出した
ものであって、内在していたものだ。全ての判断基準は生得的
(=生まれた時点で持っていた)だとした。

しかし人間はそんな数学的なものから出来ているのに、つねに
合理的判断を行うわけでもない。ヘンな話かもしれないが、
そうなのだから仕方ない。ライプニッツは判断の形式を
「分析的命題」と「総合的命題」に分けた。

だんだん複雑になってきて意味がわからないが、とりあえず
この分析的命題と総合的命題は、カントも用いているアイデア。
判断の区分としては、正確なものがあるようだ。

この分析的命題などの話はカントに譲ります。こんがらがってくるし…

しかしこのあたりからどうやって個人の自由が保障されるのか
不思議ではある。モナドは物質でなく精神的存在であるから、
自立的な運動が可能である、ということらしい。

また彼も大陸合理論の名にふさわしく、予定調和論を取る。
全ては神が最初に創ったとおりに動くということだ。
これが神のモナド「予定調和」であるらしい。

主客問題(デカルト以来の、主観は客観に一致できるか、という
問題)に関しても、モナドの考え方だとあっさり片付く。
モナドの認識するものすなわち主観であり客観であるという
ことだ。そこに差異はなくなる。

書いててよくまとまってこないので、これくらいにしましょう(-o-;)

 
さてこれで大陸合理論は終わりです。重要なポイントとしては、
彼らは、数学的な明証性とか、客観的な事物の存在、物理法則の確かさ
を自明なものとしていたこと。イギリス経験論においては、
これが否定されます。

とはいえ、数学的な考え方の明証性はどう考えても明らかに思える
…全てが経験だとするイギリス経験論もまた極端。
大陸合理論も、精神を排したせいで極端にふれてしまったけど、
これが調和するのには、カントの登場を待たねばならなかった。

ともあれ、次はイギリス経験論にいきます。

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