ああ、
2004年7月24日自分の無知さがよくわかるヽ(’Д`)ノ用語がたまに混乱する。
はやく詳しくなりたいなぁ。
デカルトでちょっとしたパラダイムが起きた。
(神と)コギト以外は疑えてしまうのだと。
(まあ、このへんは懐疑派の流れといえばそうかもしれないけど)
しかしデカルトでひとつ難点があったのは、精神と物体が
別である(物心二元論)としたことだった。
精神と物体はともに「実体」。実体とは、存在をなにものにも
依存しないものなのであるから、精神と身体(物体)はともに
かかわってはいけない。精神に身体が操られるのでは、物体が
実体でなくなる。
しかし、我々の感覚としては、身体は精神に操られているのだが
さてこれはどういうことか?
これを克服するため、ゲーリンクスとかマールブランシュって
人が、「機会原因論」をとなえた。
これは、精神と物体の上にいる神が、最初から精神と物体が
同調するようにつくったから、お互い関係ないにもかかわらず
思ったように動くのであって、まるで操っているように思う
のだ、という説で、確かにそれなら一応納得はいく。
この問題、いまだに心脳問題とかいう形で残っているみたいですね。
たしかに、脳をいくら調べても「心」なんて出てこないにも
かかわらず、我々は今「コギト」をもっている…。
ただ、竹田さんの現象学からすると、あまり問題にされない
部分ではあるのだけど(解かれたとはいえないが)。
ともあれ、物心二元論に難点があるのは確かで、それに対して
スピノザとかほかの人が結論を出すのですね。
普遍論争はちょっと扱われてませんね。実体の様態にすぎない
ってことになっちゃったから…これはやっぱりオッカムの影響だろうか。
はやく詳しくなりたいなぁ。
デカルトでちょっとしたパラダイムが起きた。
(神と)コギト以外は疑えてしまうのだと。
(まあ、このへんは懐疑派の流れといえばそうかもしれないけど)
しかしデカルトでひとつ難点があったのは、精神と物体が
別である(物心二元論)としたことだった。
精神と物体はともに「実体」。実体とは、存在をなにものにも
依存しないものなのであるから、精神と身体(物体)はともに
かかわってはいけない。精神に身体が操られるのでは、物体が
実体でなくなる。
しかし、我々の感覚としては、身体は精神に操られているのだが
さてこれはどういうことか?
これを克服するため、ゲーリンクスとかマールブランシュって
人が、「機会原因論」をとなえた。
これは、精神と物体の上にいる神が、最初から精神と物体が
同調するようにつくったから、お互い関係ないにもかかわらず
思ったように動くのであって、まるで操っているように思う
のだ、という説で、確かにそれなら一応納得はいく。
この問題、いまだに心脳問題とかいう形で残っているみたいですね。
たしかに、脳をいくら調べても「心」なんて出てこないにも
かかわらず、我々は今「コギト」をもっている…。
ただ、竹田さんの現象学からすると、あまり問題にされない
部分ではあるのだけど(解かれたとはいえないが)。
ともあれ、物心二元論に難点があるのは確かで、それに対して
スピノザとかほかの人が結論を出すのですね。
普遍論争はちょっと扱われてませんね。実体の様態にすぎない
ってことになっちゃったから…これはやっぱりオッカムの影響だろうか。
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