<その2からつづき>

ここでもう一度、存在するものの区別をしておこう。

まず、「神」がもっとも根源的な実体であり、これは「無限実体」と
される。そして、精神と物体も両方実体であるが、これは神に
依存しているのであるから、少しグレードが落ちて「有限実体」
ということにされる。実態はその本質として「属性」をもっていて、
これは実体がもともと備えている。で、物体、または精神が、
精神によって認められる諸性質を「様態」といって、このふたつを
実体は有している。

精神の属性は思惟(思考すること)であり、その様態は判断、
意志、表象(こころに描くイメージ)、感情など。物体の属性は、
延長(=大きさ)であり、様態は位置、形状、運動である。

ちなみに動物は思惟をもっているのかといえば、もっていない。
あくまで物体と延長とその様態である。精密な機械にすぎない。

デカルトはこの考えを「方法序説」で説明したのち、「世界論」で
世界説明にはいるが、この世は、本当にただひとつの「実体」から
できているのだと考えていたようで、ものに大きさがあるのは、
それがたくさん集まっているからだとした。ものには変化があるし
砕けば小さくなるのは自明だから、実体は目で見える粉とかより
もっと小さくなければならない。しかしできるだけ小さいものを
考えても、その隙間ができるし、大きさがあれば分割できてしまう
のでおかしい。しかしその実体の大きさを「無限小」と考えると都合が
悪い(無限小がいくら集まっても大きさをもてない)ので、
回避策として「無限定に小さい」とした。意味は同じように感じるけど、
後者は、人間には推し量ることのできない小ささというだけ…
だったような気がする。

世界説明についてはまだ確かに難点はあるし、こうした物心二元論にも
まだ難点があるのだけど、デカルトがここで行ったことの意味を
もう一度確認しておけば、結局のところ「人間は、主観の外に
出ることは不可能なのである」ということを示したということで
あると言える。また、「世界がどうなっているのか」ではなく、
「世界を認識する人間の精神はどうなっているのか」ということを
ここで深く突き詰めたことは、後の哲学者に受け継がれていくことになる。

また、昭和堂の哲学史では、この機械論的な自然説明によって、
自然から生命が抜き取られ、死せる自然へと変貌した、としている。
たしかに、今自然をいいように扱っている人間の世界観の発端が、
このころの哲学と自然科学に見られるかもしれない。

ちなみに、すでに普遍的な性質、形相とかが問題になってない
のは、オッカムのおかげかもしれないですね。

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