≪近代哲学(2)−デカルトについて<その3>−≫
2004年7月24日<その2からつづき>
ここでもう一度、存在するものの区別をしておこう。
まず、「神」がもっとも根源的な実体であり、これは「無限実体」と
される。そして、精神と物体も両方実体であるが、これは神に
依存しているのであるから、少しグレードが落ちて「有限実体」
ということにされる。実態はその本質として「属性」をもっていて、
これは実体がもともと備えている。で、物体、または精神が、
精神によって認められる諸性質を「様態」といって、このふたつを
実体は有している。
精神の属性は思惟(思考すること)であり、その様態は判断、
意志、表象(こころに描くイメージ)、感情など。物体の属性は、
延長(=大きさ)であり、様態は位置、形状、運動である。
ちなみに動物は思惟をもっているのかといえば、もっていない。
あくまで物体と延長とその様態である。精密な機械にすぎない。
デカルトはこの考えを「方法序説」で説明したのち、「世界論」で
世界説明にはいるが、この世は、本当にただひとつの「実体」から
できているのだと考えていたようで、ものに大きさがあるのは、
それがたくさん集まっているからだとした。ものには変化があるし
砕けば小さくなるのは自明だから、実体は目で見える粉とかより
もっと小さくなければならない。しかしできるだけ小さいものを
考えても、その隙間ができるし、大きさがあれば分割できてしまう
のでおかしい。しかしその実体の大きさを「無限小」と考えると都合が
悪い(無限小がいくら集まっても大きさをもてない)ので、
回避策として「無限定に小さい」とした。意味は同じように感じるけど、
後者は、人間には推し量ることのできない小ささというだけ…
だったような気がする。
世界説明についてはまだ確かに難点はあるし、こうした物心二元論にも
まだ難点があるのだけど、デカルトがここで行ったことの意味を
もう一度確認しておけば、結局のところ「人間は、主観の外に
出ることは不可能なのである」ということを示したということで
あると言える。また、「世界がどうなっているのか」ではなく、
「世界を認識する人間の精神はどうなっているのか」ということを
ここで深く突き詰めたことは、後の哲学者に受け継がれていくことになる。
また、昭和堂の哲学史では、この機械論的な自然説明によって、
自然から生命が抜き取られ、死せる自然へと変貌した、としている。
たしかに、今自然をいいように扱っている人間の世界観の発端が、
このころの哲学と自然科学に見られるかもしれない。
ちなみに、すでに普遍的な性質、形相とかが問題になってない
のは、オッカムのおかげかもしれないですね。
ここでもう一度、存在するものの区別をしておこう。
まず、「神」がもっとも根源的な実体であり、これは「無限実体」と
される。そして、精神と物体も両方実体であるが、これは神に
依存しているのであるから、少しグレードが落ちて「有限実体」
ということにされる。実態はその本質として「属性」をもっていて、
これは実体がもともと備えている。で、物体、または精神が、
精神によって認められる諸性質を「様態」といって、このふたつを
実体は有している。
精神の属性は思惟(思考すること)であり、その様態は判断、
意志、表象(こころに描くイメージ)、感情など。物体の属性は、
延長(=大きさ)であり、様態は位置、形状、運動である。
ちなみに動物は思惟をもっているのかといえば、もっていない。
あくまで物体と延長とその様態である。精密な機械にすぎない。
デカルトはこの考えを「方法序説」で説明したのち、「世界論」で
世界説明にはいるが、この世は、本当にただひとつの「実体」から
できているのだと考えていたようで、ものに大きさがあるのは、
それがたくさん集まっているからだとした。ものには変化があるし
砕けば小さくなるのは自明だから、実体は目で見える粉とかより
もっと小さくなければならない。しかしできるだけ小さいものを
考えても、その隙間ができるし、大きさがあれば分割できてしまう
のでおかしい。しかしその実体の大きさを「無限小」と考えると都合が
悪い(無限小がいくら集まっても大きさをもてない)ので、
回避策として「無限定に小さい」とした。意味は同じように感じるけど、
後者は、人間には推し量ることのできない小ささというだけ…
だったような気がする。
世界説明についてはまだ確かに難点はあるし、こうした物心二元論にも
まだ難点があるのだけど、デカルトがここで行ったことの意味を
もう一度確認しておけば、結局のところ「人間は、主観の外に
出ることは不可能なのである」ということを示したということで
あると言える。また、「世界がどうなっているのか」ではなく、
「世界を認識する人間の精神はどうなっているのか」ということを
ここで深く突き詰めたことは、後の哲学者に受け継がれていくことになる。
また、昭和堂の哲学史では、この機械論的な自然説明によって、
自然から生命が抜き取られ、死せる自然へと変貌した、としている。
たしかに、今自然をいいように扱っている人間の世界観の発端が、
このころの哲学と自然科学に見られるかもしれない。
ちなみに、すでに普遍的な性質、形相とかが問題になってない
のは、オッカムのおかげかもしれないですね。
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