<その1からつづき>

さてでは、デカルトがどのようにこれを実現していったのかを
みていこう。

デカルトで有名なのは、「コギト・エルゴ・スム(われ思う
ゆえにわれ在り)」だ。
これはデカルトの「方法的懐疑」から生まれた。知っている人も
多いかもしれない。

この方法的懐疑がどのようなものだったかというと、「少しでも
疑わしいと思うものは、徹底的に疑ってかかる」というもので
ある。考え方としてはギリシャ哲学末期の懐疑派と似てはいる。

まず五感で感じる感覚はどうか?これはまずもって確かとは
いえない。すべて幻覚かもしれないではないか。ではこの世界の
存在そのものだけは、確かだろうか?いや、もしかしたら、
これは夢の中かもしれない。夢の中かもしれないという少しの疑いが
持てるならば、それは確かなものとはいえない。
では、誰がやっても同じ答えになる、数学とか幾何学の知識に関しては
確かなものだろうか?いや、たとえば1+1にしたって、それは人間が
計算してみて毎回正しいから正しいと思えているだけで、実は
その毎回毎回に、「悪意ある霊」が、人間を誤らせているのかも
しれないではないか。かくして、すべてに疑いの目を向けると、
何も確実に正しいものはなくなってしまうかにデカルトには思えた。

しかし、その疑っている最中にも、その疑っている自分がいることだけは、
どうしても否定しようがないではないか?「果たして自分は本当に
疑っているのか?」と疑うことすら疑っても、そのときすでに自分は
疑っている。いくら疑ってみても、そのときに自分が疑っている
ことすら存在しないとするのは不可能である。

ここから、「疑うわたし」の存在、いや、疑いに限らず、たとえ
目の前の感覚がウソのものであるとしても、その感覚を「感じて
いるわたし」、物事を感じる「わたし」の存在だけは、これは
疑いようがない。

かくして、方法的懐疑の帰結として、「コギト・エルゴ・スム
(われ思う、ゆえにわれ在り)」が導き出される。デカルトは、
これを知識の確実な基盤にすべきだと考えた。

デカルトがただの懐疑派と違うのは、懐疑するだけで終わるのでなくて、
この方法的懐疑を使って、すべての確実な知識の基盤に得ようと
考えたところ。世の中を見渡せば、誰もがおのれの持っている客観的
世界観が正しいと思い込んで、いつ終わるともない対立を続けている。
デカルトはまず、自然科学者にも、スコラ学者にも、どちらにも
疑いようのない点から出発することが肝要であり、そうすれば、
争いあう人々がともに納得できる理論が構築できると考えたの
だろうと思う。

さて、確実に知られるのはコギト・エルゴ・スムであることだけが、
これで証明された(ちなみに、これに後から批判を加えた哲学者もいる。
デリダとか)。しかし、だとすると、それ以外はなんにも正しいことなど
なくなってしまうのではないか?ただコギトだけが確実だ、という一行で
理論が終わってしまっては、意味がない。もちろんデカルトも、
新しい理論を作ろうとしていたわけだから、なんとかここから、
世界を説明づける理論を考えなければならない。

まず、ではどう考えたか。デカルトは、人間のうちに、「完全なもの」
とか「絶対者」とかいう概念があることに着目した。人間は有限な
存在であるのに、そういう完全なものを思い浮かべることができるのは
おかしい。有限なものから無限なものは生まれないのだから、
人間そのものからこうした概念が生まれるのであれば、これは矛盾である。

ちょっと反論も考えられるが、続けてみていこう。

だから、まず、人間がそれを思い浮かべられる理由として、
人間を創造した「神」をおいた。神が、人間から完全や絶対者の概念が
生まれる理由だとするわけである。

とすると、人間の「完全性」とか「絶対性」、「善」など、
すべての肯定的な概念の源泉である、「神」は、当然、完全で無限なる、
絶対者であるから、そういう「神が創った人間の理性」に照らして
絶対確実に正しいと思えるものが、間違っているはずがない。
そんな風に神が創造したはずがない、とするのである。したがって、
どう考えても明証で確実なものは、これは確実な知識としてよいのである、
とデカルトは考えた。特に、理性によってかなり明証確実になる数学や
幾何学の知識は、これは信頼してよいとデカルトは考えた。

今では、これで納得する人は少ないだろう。しかしともあれ、こういう
理屈づけから、デカルトは人間の理性とか知識に確実さを保障
したかったのである。そうでなければ、すべてが「悪意ある霊」、
「欺く霊」によって不確実な知識となってしまう。

さて、これで、まず「わたし」の存在と、「神」の存在、それと、
「わたし」の持つ理性的判断の「確かさ」が確認された(ただし
順序としては、やはり「神」が先にあって、その後に「わたし」
が来るのだろう)。

次に、ではこの世界は、その「確かな理性」に照らすと、どういうことに
なっているのか、と考えてみる。

この世界に関して、これが存在しないと考えるのは不都合がある、
というのも、もしこの世に存在するのが神と、(わたしの)精神だけで
あるとするなら、目の前の景色も、精神によってどうとでも変化
しそうなものだからだ。しかし実際には、自分がどう思っても考えても、
目の前の事物はそれとは関係なしに動く(実際には存在しないことも
想定可能であるから、もう少し確実性のグレードは落ちるとは思うが)。

なので、神と精神ともうひとつ、この世に物体が存在すると
考えなければならない。ではこの物体とはなんだろうか。

デカルトは、数学的な明証さに信頼をおいていたのであるから、
それ以外はほとんど信用していない。また、数学的な公理のように、
この世界は、考えられる最小のもので説明されるはずだと信じていた。

なので、理性ではなく、感覚で感じられるようなものはまず
切り捨てられる。色、香り、手触り、などなど、それら一切の
ものが、人間の感覚に依存しているのであって、
実際にそこに存在しているのは、延長(=大きさ)、をもつ、
ある「実体」なのであるとした。感覚はそれは人間が感じさせて
いるだけなのであり、実際には、アトムのような一つの性質をもった
ある「もの」がたくさん存在しているだけ、としたのである。
この「実体」の意味とは、それが存在するのに、他の何にも依存
していないもの、のことで、世界を構成する、もっとも根源的な
ものであるといえるかもしれない。感覚などは、それは人間が感じる
ことによって存在するのであり、実体ではない。

えらい長くなった。近代哲学者は長くなる人が多そうだ…

その3へ。

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