よく見たら、昭和堂の分類は近代でなくて「近世」になっていますね。
自覚的にヘーゲルで切ったようです。
どちらかというと近代とは、マルクスとかフロイト等々も含んだ
社会学とか心理学とか経済学とか、広範な区分みたいですね。
で、その近代以後を「ポスト・モダン」というそうです。
哲学史的には、近世の後、現代にも少し食い込んでしまうのだとか。
うーん、どうなんでしょうね。ヘーゲル、ヴィンデルバンド、
ジルソンのも一通りやはり読むべきか。

最初のデカルトにいく前に、近代における重要な人物、ベーコンと
ガリレイについて少し扱っておきます。この人たちは、デカルトよりは
ちょっと前の人。

最初に背景説明から。

これまで中世哲学では、論証がすべて神に帰結してしまうということは
すでにみました。キリスト教的世界観が絶対であったころは、
むしろそうでなくては人々にとっても意味をなさなかったし、
キリスト教以外の世界観が説得力をもってしまうことは、
それによって民をおさめている教会や国にとって許されないものだった。

しかし、近代に入って、そのキリスト教的世界観は大いに揺らいだ。
理由は大きく分けてよっつ。

ひとつには、地上や海上の交通手段の発達などによって、
インド・アジアや新大陸との交易が活発になったということ。
キリスト教徒にとって、自分たちがいままで疑いもなく自明と
していた世界観が、まったく通じない人々がいることは驚きで
あった。また同時に、キリスト教が、ひとつの「信念の体系」でしか
ないことに否応なしに気づく結果となった。

ふたつめは、16世紀ころにカトリックとプロテスタントに分かれた
キリスト教が、それから長い間、ずっとお互いの解釈が正しいと
主張し、殺し合いを続けていたこと。弱者を救済し導くはずの
キリスト教が、もっとも弱者が踏みにじられる、戦争という悲惨を
生み出したわけである。ここでキリスト教の存在意義が大きく
揺らいだ(ニーチェがキリスト教を批判し罵倒し倒した理由も
わかる気がする)。

みっつめ、これも大きな理由で、自然科学が、それだけで世界説明を
成してしまうほどに発達してきたこと。ケプラー・ガリレイ・
ニュートンがこのころの人である。

よっつめ、経済、市場の発展。市場の原理というのは、消費者の
各人が、おのれの自由に経済活動をすることによってのみ成立
するものである。ここにきて、己の才覚だけで人生を切り開く
よろこびに目覚めた商人たちが、自分の自由な感覚にふさわしい
世界像をもとめて、ギリシャやローマの古典を好んで読み、
そこに新たな自由な人間の生き方を探そうとした。それまでの
キリスト教的世界観に反発して、古代哲学を新たに解釈しなおす
動き、これがルネサンスの「人文主義」というものであるらしい。

 
さて、最初にフランシス・ベーコン(1561〜1626)にいきます。
カリカリに焼いたベーコンは美味しい。サンドイッチとかと同じで
ベーコンて人が作ったんでしょうか。

このころはキリスト教にたいする疑念が湧いてきてたことは述べました。
ベーコンはそれらを「イドラ(偶像。アイドルの語源?)」という
言葉で批判した人。

彼は排されるべき従来の見方を、4つのイドラに分けて解説した。
その4つのイドラとは、「種族のイドラ」、「洞窟のイドラ」、
「広場のイドラ」、「劇場のイドラ」。

こんな抽象的な言葉でちゃんと説明できるのだろうか、と不安にも
なるが、とりあえず中身をみよう。

「種族のイドラ」とは種としての人間に共通の先入見であり、
自然を擬人的に見たり、目的論を勝手に自然にあてはめたりする
こと。
「洞窟のイドラ」は、個人的な性質や習慣、教育によってできた
判断の習性とか傾向のこと。
「広場のイドラ」は、言語によって形成される偏見や幻想のこと
で、神とかありもしないものを、人に信じ込ませる。
「劇場のイドラ」とは、歴史上の舞台に登場した学説を、その
権威や伝統の名のもとに無批判的に受け入れさせて、現実を
自分の目で見て、考えることを妨げるような先入見。

聞いてみるとなるほどと思う。これらはなるべく排すべきでは
ある。ただ、伝統とか昔の知恵を吟味する姿勢も大事ではあると思うけど。

そして、これらを排して、ではどのように考えたらいいのかと
いえば、ベーコンは「帰納法」によるべきだとする。帰納法とは、
関係する事例をまずかき集めて、そこから共通の要素を取り出す
という方法。ベーコンはこの共通のものを「形相」と呼んだが、
ここに彼の時代的限界がうかがえるという(by昭和堂の哲学史)。
というのも、数学的な法則でなくて、個物に共通の性質が、
質料からはなれて存在するという、アリストテレスの形相(エイドス)で
思考が止まってしまったからであると。彼は実際、自然研究に
おける数学の重要性を十分理解できず、コペルニクスの地動説も
認めなかったとか。彼自身が劇場のイドラを排し切れてなかったのかも。

しかしそれにしても、彼の、なるべく臆見を排して自然を帰納法
から分析しようという試みは当時としても新しいものであった
ようだ。彼は「知は力なり」という言葉を残しているが、これは
近代哲学の性格をよくあらわしているということで、両方の本に
紹介されている。

最後にガリレイを少し。

ガリレイはベーコンと違って、自然に、その隠れた性質を認める
のではなく、数学的な法則を認めようとした。その最初の人では
なかったかもしれないけど、その分野での最初の巨人ではあった
のだろうか。

自然の性質は何か(what)、とか、なぜ(why)起こるか、では
なくて、どのように(how)起こっているかという観点に、自然科学を
推し進めた。そしてその観点から調べるには、現象を量に還元して、
事象間の関係を量的な関係、数学的な法則へと換えなければならない
とした。量はグラムとかそういうの、法則は物理法則ですな。

さらに彼は、経験をかき集めてそこから法則を取り出す帰納法
だけでなく、自然現象を単純な数式に分析して(分析的方法)、
その数式どおりに自然が動くかどうかを確かめる(総合的手法)、
という画期的な方法を編み出した。

「自然という書物は数学的な言葉で書かれている」とは彼の言葉。

そしてその結果が、今日の物理学の発展に繋がっている。彼の功績に
よって、アリストテレス以来の自然観に革命がもたらされたといって
過言ではないようだ。自然科学の祖とよばれるゆえんである。

自然科学についてはこれで、哲学においてはデカルトがアリストテレス
以来のものを終わらせたのだろうか。デカルトにいきます。

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