しかし理由はよくわからないのだけど、昭和堂の哲学史では
スコトゥスとオッカムはまったく扱っていないのですね。
スコトゥスはともかく、オッカムはわりと有名なような…
しかし中世哲学の精神をよく伝えるために、細かく扱いたいから
厳選した2人だそうです。

ともあれ見ていきましょう。

ドゥンス・スコトゥス(1265/65〜1308)はスコットランド生まれで、
フランシスコ会の修道士となった人。その学識の高さから、
精妙博士と呼ばれたとか。まぁ哲学者って、どの人も膨大な
文献に目を通して、考えふけっていたのでしょうね。

 
さてアクィナスは、経験をすべての知覚の土台と考えた。
これは二重真理説から少し発展させたくらいの考え方で、
その経験から類推、「存在の類比」をすることで、普遍的な
認識へとだんだん近づいていけるのだと。

しかしそれだと、有限な人間の認識能力では、永遠に神を
認識することは不可能ということになる。スコトゥスはこの点が
不満だった。

そこで、なのかどうかは分からないけど(自分の感覚を振り返って
そう思ったのか、それとも神の認識への必要性から考え出したのかは
分からないけど)、彼は、人間の認識能力について振り返ることで、
人間のもともともっている感覚自体にも、ある普遍的なものが
感じられているとした。

というのも、たとえば目の前の景色を眺めると、どこに何があるか
という区別が自然とできるからである。

もし人間にそういう区別ができなければ、どの景色も、一面的な
色と形の束としてしか認識されないであろう。これは認識において
馬とか木とかの個物が、例えば馬なら、その馬の個体そのものが、
どこで見てもそれが馬だと分かり、景色の中から区別できるような、
個体性と、またほかのものと共通の普遍性を備えているのだと考えた。

もっと簡単にいうと、個体そのものに、その個体の性質が
そなわっているということである。

それが一体何か?当たり前では?とも感じるけれど、これは当時
新しい考え方だった。なぜなら、ものの性質は、ある「普遍的な
性質」をいくつも兼ね備えることで存在している、という、
アリストテレスの「形相」の考え方が主流だったからである。
そこでは個体の違いというものはなくて、「種」による違いしか
扱われなかった。

そうではなくて、個体そのものに、「個体性」がある。

たとえばプラトンなら「プラトン性」が。ソクラテスなら「ソクラテス性」が
あるのである。

この考え方は、オッカムによってもっとつきつめられることになる。

ありゃ、昭和堂の詳しい説明による補強がないと短いですな。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索