<その1からつづき>

夏休みで時間があるってこともあるけど、はやいとこ近代哲学に
いって詳しく扱いたいということもあり。

それにしても「です、ます」調と「だ、である」調がまじります
な…基本的に浅学者なので、偉そうに紹介したくはないんです
けど、説明を全部ですます調でやるとなんだかしまりがなくて。

さて、アクィナスが、前の3つの問題をどうクリアしようとしたか?

第1の問題について。アクィナスは、人間の知性が、経験によって
作られる面があることに着目し、能動的知性というものは、
受動的知性が、質料である身体の助けを借りて、認識を積み、
完全な姿になったものをいうのであって、それは単純に神から
与えられて、死後は還っていくものではないとした。

第2の問題については、じつはアクィナスでは解決していない。
というのも、完全な能動的知性は相変わらず神のもとに存在していて、
人間は認識を積み、それによって類推(アナロジー)することに
よって、それに近づくことができるだけ、としているからである。

ただし、個人の救済については答えを出していて、それは
個人を救済するかどうかは神の自由であって、人間はただ自己の
本性を実現するために、道徳的に生きることが目的なのである、
というものだ。なんか問題をそらしただけという気もするが。

第3の問題は、この世界そのものがすべて有限であり、神に創造
されたものであることに着目する。対して神は永遠で無限なので
あり、人間はこの有限の世界で経験を積み、天へ向かう旅をする
のであると彼はいう。ここに最後の審判の意味がでてくる、らしい。

 
…おそらく、彼の著書「神学大全」では細かな証明があるのだとは
思うけれど、あまりどれも解決になってないような気はする。
でも元々破壊的なほど矛盾してたものを、なんとか調和させた
という功績は大きいのだろうし、当時の世界にとってはぜひとも
必要な理論だったのだろうね。

しかし見てみるに、彼の論は二重真理説、を、人間の類推(アナロジー)
するという性質によって繋げようとした試みである、ということが
できる。このあたりがキモだろうか。

ちなみに有名な言葉「哲学は神学の婢女(はしため)」とは
彼の言葉で、彼はむしろこれを否定する作業にいそしんだ。
(このころ、哲学の言葉をいじりまわして、なんとか哲学を
神学に従属させようとしていた人たちが沢山いたからだろうと
思う。ソフィストもそうだけど、哲学の世界はいつの時代も
そういう人が多そうだ)

彼は哲学は神学と調和可能だということを示そうとしたということで、
哲学をむしろ高く評価していたのだろうね。

 
そして、「普遍論争」に焦点をあてて抜き出せば、アクィナスの
出した結論は、神のもとに物質の性質、形相、イデアがあるので
あり、それによって人間は普遍的な理解が可能なのである、
という結論になっていることがわかる。

人間の外に、絶対的な「普遍性を確保してくれるもの」が実在する
とするこの考え方を「実在論(実念論)」という。

中世以前では、こういう考え方が多かったというのはわかると
思う。イデアもそうだし、アリストテレスの形相もそうである。

ギリシャ哲学では、外に絶対的なものがあるか、そうでなければ
懐疑論にはしるか、という感じだったが、中世でここにひとつ
進展が見られるところがある。

というのも、つづくドゥンス・スコトゥスからオッカムに至ると、
この実在論が否定され、少し別の結論が出されるからである。

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