≪中世哲学(2)−トマス・アクィナスについて<その1>−≫
2004年7月23日アウグスティヌスはちょっと軽い扱いになっちゃったなぁ。
今のキリスト教にとってはかなり重要な人らしいです。
ローマ帝国が国教に定めたとき、まだその理論的つきつめが
しっかりできてなかったそうで、アウグスティヌスが、
新プラトン主義をモチーフにそれをやったのですな。
歴史的意味は大きいみたいです。
ともあれ、時代は移ってトマス・アクィナスにいきましょう。
この人の具体的な理論に入る前に、お決まりの背景説明を
します。
アウグスティヌスのところで、あのころまだギリシャ哲学が
伝わりきっていなかったことは紹介しましたが、12世紀に入って
ようやくプラトンとかアリストテレス哲学などが翻訳されて
伝わったらしいんですね。イスラムなんかはそれ以前からずっと
やってたそうで、西洋は哲学後進国だった。
そうなるに至って、それまで容易と思われてたキリスト教と
ギリシャ哲学の調和が、非常に難しいことが分かった。
だから最初は、イスラムの哲学者イヴン・ルシュドの哲学を
西洋風に解釈した、ラテン・アヴェロス主義という理論でもって
それを成そうとしたらしい。しかし逆にこれはうまくいかず、
人間の不死の問題、個人の救済の問題、神による世界の創造の
問題など、難問が出てくることになってしまった。
ラテン・アヴェロス主義もキリスト教も、人間にはもともと
生まれたときからもっている知性、受動的知性と、神から
与えられた知性、能動的知性があって、そのふたつが合わさって
人間の知性ができていると考える、ここは両方同じ。
ちなみに、普遍的理解が可能とされるのは、神から与えられた
能動的知性があるから、とされる。考え方としてはイデアに
よく似ている…
しかし問題、それも致命的なものが3つほどあるという。
第1には、ラテン・アヴェロス主義では、人が死ぬと、霊魂は
身体と共に滅びてしまって、能動的知性のみが、もといた神の
もとへ還るのであるとしているのに対して、キリスト教は、教義で
霊魂の不死をうたっている。これでは完全に矛盾である。
第2には、神から与えられる能動的知性は、普遍的なものしか
認識せず、個別的なものは認識しないとした。個別のものを認識
するのは、人間のもつ受動的知性だけだということになるが、
しかしそれだと、神は人間を個別に認識しないことになる。
これでは、個人の救済をうたうキリスト教の存在意義があやうくなる。
第3には、この主張では、世界に存在するのは、無限定な
第一質料のみであり、神はこれにイデアという形相を加えて
この世界を創ったとしている。しかしこれは、創世記の世界創造と
矛盾するし、第一質料はそれそのものは変化しないものであるから
永久にこの世界が続くことになってしまう。最後の審判がなくては
教義がなりたたない。
こんなような矛盾があらわれた。これはイスラムにとってはそう
重要な違いではないかもしれないが、キリスト教にとっては
この理論を認めてしまえば、教義が破壊されてしまうため
13世紀にはいると、これは異端として攻撃されることになった。
また一方で、これは人間のもちうる真理なのであって、神の
持てる真理とは違うのであるとする「二重真理説」もあらわれた。
トマス・アクィナス(1225頃〜1274)が現れたのは、そんな折である。
彼は、この二重真理説を回避して、なんとかこのふたつを
調和させようとした。
そしてその過程で、「普遍論争」の解決にも携わることになる。
彼は、基本的にアリストテレスの「形相」と「質料」とか、
「可能態」とか「現実態」という存在論をベースに、存在論にも
言及しているが、ここではそれには触れないこととする。
というのも、結局これらは「純粋で完全な現実態」とか、
そういう「神の説明」に終着するだけのもので、アリストテレスより
何かがより進化したということはあまり感じられなかったから。
彼が上のみっつの問題をどう解釈したか、に力点をおいて
紹介していこうと思います。
ちなみに、昭和堂の解説では、上の存在論などに力点がおかれてて、
はじめての哲学史では、キリスト教との調和と普遍論争に力点が
おかれてます。
昭和堂のはちょっと、読むのが辛かった…確かに詳しくはあるが…
今のキリスト教にとってはかなり重要な人らしいです。
ローマ帝国が国教に定めたとき、まだその理論的つきつめが
しっかりできてなかったそうで、アウグスティヌスが、
新プラトン主義をモチーフにそれをやったのですな。
歴史的意味は大きいみたいです。
ともあれ、時代は移ってトマス・アクィナスにいきましょう。
この人の具体的な理論に入る前に、お決まりの背景説明を
します。
アウグスティヌスのところで、あのころまだギリシャ哲学が
伝わりきっていなかったことは紹介しましたが、12世紀に入って
ようやくプラトンとかアリストテレス哲学などが翻訳されて
伝わったらしいんですね。イスラムなんかはそれ以前からずっと
やってたそうで、西洋は哲学後進国だった。
そうなるに至って、それまで容易と思われてたキリスト教と
ギリシャ哲学の調和が、非常に難しいことが分かった。
だから最初は、イスラムの哲学者イヴン・ルシュドの哲学を
西洋風に解釈した、ラテン・アヴェロス主義という理論でもって
それを成そうとしたらしい。しかし逆にこれはうまくいかず、
人間の不死の問題、個人の救済の問題、神による世界の創造の
問題など、難問が出てくることになってしまった。
ラテン・アヴェロス主義もキリスト教も、人間にはもともと
生まれたときからもっている知性、受動的知性と、神から
与えられた知性、能動的知性があって、そのふたつが合わさって
人間の知性ができていると考える、ここは両方同じ。
ちなみに、普遍的理解が可能とされるのは、神から与えられた
能動的知性があるから、とされる。考え方としてはイデアに
よく似ている…
しかし問題、それも致命的なものが3つほどあるという。
第1には、ラテン・アヴェロス主義では、人が死ぬと、霊魂は
身体と共に滅びてしまって、能動的知性のみが、もといた神の
もとへ還るのであるとしているのに対して、キリスト教は、教義で
霊魂の不死をうたっている。これでは完全に矛盾である。
第2には、神から与えられる能動的知性は、普遍的なものしか
認識せず、個別的なものは認識しないとした。個別のものを認識
するのは、人間のもつ受動的知性だけだということになるが、
しかしそれだと、神は人間を個別に認識しないことになる。
これでは、個人の救済をうたうキリスト教の存在意義があやうくなる。
第3には、この主張では、世界に存在するのは、無限定な
第一質料のみであり、神はこれにイデアという形相を加えて
この世界を創ったとしている。しかしこれは、創世記の世界創造と
矛盾するし、第一質料はそれそのものは変化しないものであるから
永久にこの世界が続くことになってしまう。最後の審判がなくては
教義がなりたたない。
こんなような矛盾があらわれた。これはイスラムにとってはそう
重要な違いではないかもしれないが、キリスト教にとっては
この理論を認めてしまえば、教義が破壊されてしまうため
13世紀にはいると、これは異端として攻撃されることになった。
また一方で、これは人間のもちうる真理なのであって、神の
持てる真理とは違うのであるとする「二重真理説」もあらわれた。
トマス・アクィナス(1225頃〜1274)が現れたのは、そんな折である。
彼は、この二重真理説を回避して、なんとかこのふたつを
調和させようとした。
そしてその過程で、「普遍論争」の解決にも携わることになる。
彼は、基本的にアリストテレスの「形相」と「質料」とか、
「可能態」とか「現実態」という存在論をベースに、存在論にも
言及しているが、ここではそれには触れないこととする。
というのも、結局これらは「純粋で完全な現実態」とか、
そういう「神の説明」に終着するだけのもので、アリストテレスより
何かがより進化したということはあまり感じられなかったから。
彼が上のみっつの問題をどう解釈したか、に力点をおいて
紹介していこうと思います。
ちなみに、昭和堂の解説では、上の存在論などに力点がおかれてて、
はじめての哲学史では、キリスト教との調和と普遍論争に力点が
おかれてます。
昭和堂のはちょっと、読むのが辛かった…確かに詳しくはあるが…
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