<その1からつづき>

とは言うんだけど、実はアウグスティヌスは、先に挙げたふたつの
問題のうち、片方しか扱ってない。そのふたつというのは

1.人間に普遍的な理解ができるのはなぜか
2.ギリシャ哲学とキリスト教の教義をどう調和させたらいいか

このうち、2しか扱ってないということ。

それに、この頃はまだ、西洋にはあまりギリシャ哲学は伝わって
おらず、ギリシャ哲学とキリスト教の教義の致命的な齟齬も明らかに
なってはいなかったので、2を扱ったといっても、それは自覚的で
はなかっただろう。アウグスティヌスがしたことは、確かに哲学的に
おもしろいところはある(彼の時間論は、フッサールが絶賛したほどの
ものであるらしい)らしいけど、内容としては、新プラトン主義と
キリスト教のあいのこという感じ。

キリスト教の解釈に新プラトン主義のエッセンスを加えて、
キリスト教が弱者救済における最大にして唯一の理論であることを
示そうとした、ということで、キリスト教的には偉大な教父であることには
間違いないが、どちらかというと哲学の人ではないかも…(いや、
浅学の身で、哲学史の本に両方とも紹介されてる人にそんなこと
言っちゃいかんけど)。

1も2も、この後のトマス・アクィナスから本格的に始まることに
なる。
哲学的にいえば、2はあんまり重要じゃなくて、1における進展が
いわゆる「普遍論争」と呼ばれるもので、かなり重要と思えるんだけどね。

ともあれ、この人の考えたことをみていこう。

アウグスティヌスの考えたこと、それは、聖書における「悪」とは
何かということと、キリスト教の教義にのっとって、人間はどのように
生きたらいいかということ、このふたつ。

まず、前者について。

この世に「悪」は存在するだろうか?一般的な感覚としては、もちろん
存在する。しかし、これはキリスト教的にはヘンなのである。なぜか?

それは、完全な存在である神がこの世界を創造したのに、なんで
「悪」なんてものを創り出したのか、というところがどうしても
納得がいかないからだ。漫画とかではたまに扱われてる問題の
ような…。

人間世界で起こることは、戦争はじめ、暗部に目を向ければそれはもう
おぞましい世界が見えてくる。このようなおぞましい人間の悪を、
なぜ神はお創りになったのか?もし神が創ったのであれば、
神はこのことを見通していたということになるのであるから、
信仰しようという気をなくしてしまいそうだ。

そこで、アウグスティヌスは、いや悪なんてものは、神は創って
いない、とした。それは、人間の欠如によるものなのだと。

たとえば、盲目の人は、以前は目が見えていたのに、目が見えなくなる
(欠如)によって苦痛を感じる。この世で完全であるのは神のみで
あるのだし、したがって人間は不完全であり、どこかが必ず
欠如しているのであって、その欠如によって生じる不合理を
人間が「悪」と呼んでいるにすぎない、と。

実はこれは、新プラトン主義の、あのト・ヘンの考え方から
アイデアを取っている部分があると思う。ト・ヘンは完全だが、
そこから離れれば離れるほど、ト・ヘンのもっていた完全性が
失われている。魂と質料の合体した人間とは、そういうものであると。

アウグスティヌスが言ったことはほかにも色々とあるんだけど、
ここではもうひとつ、人間がキリスト教にのっとってどのように
生きていくべきか、について書いて終わりとします。
また個別に原著読む時に詳しく見よう。「神の国」と「告白」
くらいは読んでおきたい。

これもかなり、新プラトン主義の考え方を踏襲している部分が
ある。キリスト教は、いわゆる「最後の審判」に向けて、なるべく
徳を積む生活を送るべきであるという教えをしているが、
これがト・ヘンへの合一を目指すところと重なったのだろうか。

彼はまず、自分の観る世界に目を向けて、これらは
神によって創られた世界にすぎないのであって、この中には
目指すべき神(ト・ヘンに近いか)はいないと考えた。

次に、自分の感覚能力に目を向けるが、この感覚能力には
神は見いだされない。次に、学問的知識の層にいく。これらの
学問的知識というのは単なる知識ではなくて、数学の図形に
関する知識とか、外から学んだのでは手に入らない知識のことを
指す。しかしこの層にも神はいない。

次に、感情や、記憶したもの、さらに「忘却したこと」をすら
記憶している層にいく。「忘却したこと」というのは不思議で、
なぜなら忘却しているにもかかわらず、かつて何かしらを
覚えていたことは記憶しているからである。
人が意識できない、無意識にこれは存在している。ここで彼は
記憶の無限さ、偉大さを知る。ここがまさに、「わたし」である
魂である。しかし、魂はあくまで神(ト・ヘン?)にいたる
前の段階なのであって、まだ彼の探求は続く。

ここで人間は幸福の生を求めるところに考えがいたる。
人間は生が幸福であることをあらかじめ知っているが、しかし
それはどこで知ったわけでもなくあらかじめ知っている…

幸福とは何か、それは喜びである。では喜びとは何か、それは
「真理を喜ぶ」ことである、と彼はいう。その証拠に、誰でも
欺かれれば怒る。それは真理を愛しているからである、と。

ここではじめて、真理として捉えられた「神」が彼の前に
姿をあらわす。この真理とは何か。それは、「すべての真なるものが
それによって真であるところの真理」、すなわちすべての「真なるもの」
の原因・根拠であるところの「真理」にほかならない。

こうして彼は、人間がもっている「真理の喜び」の記憶の中に
神の記憶を発見するのである。

この後もう少し、「三一性」というキーワードを用いた細かい
探求があるが…結局は、この人間の精神の無意識にひそむ真理、
「神」を愛することは、自己を愛することであり、また単に
自己を愛するだけでなく、自己の中にある神を愛することよって
自己の中にある、「真の神の似像」を現出せしめることが可能である
という。

新プラトン主義とおおいに被るところがある思想だと思う。
求むるところは幸福とかそういうものではなくて、自己の中にある
神の似像を現出せしむるところにあるというところが特に。

結局、個人の救済、最後の審判、神による世界創造などの
教義が満たされねばならないので、こういった結論にはなると
思う。少し論理の飛躍もあるような気もするし…哲学的な
モチーフを取り出すにも、原著を読む時にしましょう(;-o-)

つぎ、トマス・アクィナスにいきます。こっから扱うトマス・アクィナス、
ドゥンス・スコトゥス、オッカムは、「普遍論争」の中で
この3人がどのような主張でこれを解決したか、で読むと分かりやすい
と思います。

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