ふー
2004年7月21日やっとギリシャ哲学がおわった。
ここで少し、何が問題とされたのか、それに対してどういう
解決案が出されたのか敷衍してみる。
の前に少し、神話的で、おとぎ話のようにも思えるギリシャ哲学に
ついて、少し思うところを言っておきたい。
このころは、世界説明に対して、今ある科学ほどに説得力のある
ものがほとんど提出されていない。哲学か、神話(ミュートス)だけだ。
なので、何か自分の心に存在する不思議があるとき、それを
説明する何かを思いつくと、それが即、神話的な世界説明に
吸収されてしまうという側面がどうしてもある。これは別に
ギリシャ哲学だけではないけれど。
たとえば、各人間に共感が可能なのはなぜか?完全な三角形など
ないのに、完全な三角形を思い浮かべられるのはなぜか?
このような問いに納得いく説明をしようとすると、イデアとか、
形相(エイドス)と質料(ヒュレー)によるウーシアとか、
ト・ヘンから流出(エマナチオ)した知性(ヌース)から
霊魂(プシュケ)が生まれて、それが質料を認識するからなのだ
とか、色々世界説明も絡んだ神話的考察がなされる。
今では、この問いに答えるには、大脳生理学があると思う。
人間は、たとえば(・_・)←こんなものも顔だと認識する。
物を一定の単純化を経て記憶し、そのパターンを当てはめる
ように、脳に刻み付ける(いや、よく知らないけど)という
話をなんかで見た覚えがある。
しかしそんなものはないので、神話的説明になってしまう。
今では、科学的検証が明らかになっているものにすら、色々と
理屈だけで考えようとするので、説明が冗長で意味が無いように
思えてしまう。
だが、だからといって、彼らの直観した問題が、今日すべて
解かれているかどうか…?たとえば、ソクラテスがイデアで
説明しようとしたことのうち、人間が真、善、美をめがける
心性を持っていること、その仕組みについて、物理学とか
心理学が明確な答えを出せるのだろうか?
人間が感じる哲学的な問いに関して、大脳生理学とか生物学、
物理学、心理学、社会学などが、まだ荒削りだったその問いの
内容のうち、科学的検証で説明可能な部分をどんどん削り取って
いった。しかし、まだ残っている部分が少しある。これに関しては、
それこそギリシャ哲学の昔から、ずっと連綿と考え続けられ
鍛え上げられてきた内容にこそ、見るべきものがある、のでは
ないだろうか。と思う。現代哲学が問題にしているのも、まさに
そこなのだと思う。
世界観も含めて議論されているため隠れやすいが、これらの
疑問、問いの中にある重要な核ともいうべき部分の、哲学的な
進展も、確かにギリシャ→中世→近代、そして現代にも
受け継がれているような気がする。これも竹田さんの受け売り
かな。
客観的に検証しろといわれたら不可能だが、しかし自分の心の
中には、しっかりあるし、共感もできるように思う…
うまくいえないが、そういうものに関して論理的に記述し、
他の人の共感を得る、というものが哲学になっている。
俺のくだらない受け売り持論でスペースが(;´Д`)
さてこの時点までで哲学が問題にしてきたのは、世界は
何からできているのか?からはじまって、最後にたどりついたのは
「人間に普遍的な認識が可能なのはなぜか?」になっているように
思えないだろうか?上でも少し書いたけれど。
それに対して、イデア説のような絶対的な存在を想定するか、
それとも目の前にあるものが全てであると考えるか、または
そんなことを考えるのは無駄であるとするか、すべて疑ってかかり
普遍的な認識など不可能であるとするか、色々な考えがあったと思う。
中世になると、世界説明はキリスト教にすべて吸収される。
現代の自然科学と同じく、そんなものは哲学でひっくり返せる
ものではなくなっているわけだ。
そこで、なのかどうかは分からないけど、この「人間に普遍的な
認識が可能なのはなぜか?」という問いが中世哲学のひとつの
大きなテーマになる。
ちなみにもうひとつは、キリスト教とギリシャ哲学(おもに
新プラトン主義とかアリストテレス哲学)との調停、これも、かなり
大きな作業だった。
これらが結局、「神」という概念で総括されるのが特徴では
あるけど、普遍論争に着目すれば、それなりの進展はあった、
のかもしれない。詳しくみていこう。
ここで少し、何が問題とされたのか、それに対してどういう
解決案が出されたのか敷衍してみる。
の前に少し、神話的で、おとぎ話のようにも思えるギリシャ哲学に
ついて、少し思うところを言っておきたい。
このころは、世界説明に対して、今ある科学ほどに説得力のある
ものがほとんど提出されていない。哲学か、神話(ミュートス)だけだ。
なので、何か自分の心に存在する不思議があるとき、それを
説明する何かを思いつくと、それが即、神話的な世界説明に
吸収されてしまうという側面がどうしてもある。これは別に
ギリシャ哲学だけではないけれど。
たとえば、各人間に共感が可能なのはなぜか?完全な三角形など
ないのに、完全な三角形を思い浮かべられるのはなぜか?
このような問いに納得いく説明をしようとすると、イデアとか、
形相(エイドス)と質料(ヒュレー)によるウーシアとか、
ト・ヘンから流出(エマナチオ)した知性(ヌース)から
霊魂(プシュケ)が生まれて、それが質料を認識するからなのだ
とか、色々世界説明も絡んだ神話的考察がなされる。
今では、この問いに答えるには、大脳生理学があると思う。
人間は、たとえば(・_・)←こんなものも顔だと認識する。
物を一定の単純化を経て記憶し、そのパターンを当てはめる
ように、脳に刻み付ける(いや、よく知らないけど)という
話をなんかで見た覚えがある。
しかしそんなものはないので、神話的説明になってしまう。
今では、科学的検証が明らかになっているものにすら、色々と
理屈だけで考えようとするので、説明が冗長で意味が無いように
思えてしまう。
だが、だからといって、彼らの直観した問題が、今日すべて
解かれているかどうか…?たとえば、ソクラテスがイデアで
説明しようとしたことのうち、人間が真、善、美をめがける
心性を持っていること、その仕組みについて、物理学とか
心理学が明確な答えを出せるのだろうか?
人間が感じる哲学的な問いに関して、大脳生理学とか生物学、
物理学、心理学、社会学などが、まだ荒削りだったその問いの
内容のうち、科学的検証で説明可能な部分をどんどん削り取って
いった。しかし、まだ残っている部分が少しある。これに関しては、
それこそギリシャ哲学の昔から、ずっと連綿と考え続けられ
鍛え上げられてきた内容にこそ、見るべきものがある、のでは
ないだろうか。と思う。現代哲学が問題にしているのも、まさに
そこなのだと思う。
世界観も含めて議論されているため隠れやすいが、これらの
疑問、問いの中にある重要な核ともいうべき部分の、哲学的な
進展も、確かにギリシャ→中世→近代、そして現代にも
受け継がれているような気がする。これも竹田さんの受け売り
かな。
客観的に検証しろといわれたら不可能だが、しかし自分の心の
中には、しっかりあるし、共感もできるように思う…
うまくいえないが、そういうものに関して論理的に記述し、
他の人の共感を得る、というものが哲学になっている。
俺のくだらない受け売り持論でスペースが(;´Д`)
さてこの時点までで哲学が問題にしてきたのは、世界は
何からできているのか?からはじまって、最後にたどりついたのは
「人間に普遍的な認識が可能なのはなぜか?」になっているように
思えないだろうか?上でも少し書いたけれど。
それに対して、イデア説のような絶対的な存在を想定するか、
それとも目の前にあるものが全てであると考えるか、または
そんなことを考えるのは無駄であるとするか、すべて疑ってかかり
普遍的な認識など不可能であるとするか、色々な考えがあったと思う。
中世になると、世界説明はキリスト教にすべて吸収される。
現代の自然科学と同じく、そんなものは哲学でひっくり返せる
ものではなくなっているわけだ。
そこで、なのかどうかは分からないけど、この「人間に普遍的な
認識が可能なのはなぜか?」という問いが中世哲学のひとつの
大きなテーマになる。
ちなみにもうひとつは、キリスト教とギリシャ哲学(おもに
新プラトン主義とかアリストテレス哲学)との調停、これも、かなり
大きな作業だった。
これらが結局、「神」という概念で総括されるのが特徴では
あるけど、普遍論争に着目すれば、それなりの進展はあった、
のかもしれない。詳しくみていこう。
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